健全な滞在型温泉地として「湯布院」ブランドを育てる
健全な滞在型温泉地として「湯布院」ブランドを育てる
◆巨大開発に頼らず、自然・暮らし・文化を観光資源にした町
大分県の湯布院は、由布岳、田園風景、温泉、個性的な旅館、美術館、音楽祭や映画祭によって知られる観光地です。
しかし、その評価は豊富な温泉や美しい自然だけで自然発生的に生まれたものではありません。湯布院の人々は、高度経済成長期に各地で進められた大型ホテルや娯楽施設中心の観光開発とは異なる道を選びました。
町に暮らす人が心豊かに生活できる環境こそ、旅人にとっても魅力的である
という思想を、何十年もかけて実践した結果が、今日の「湯布院ブランド」なのです。
1.もとは田園の中に温泉が点在する町
由布院盆地では、温泉の源泉が広い範囲に点在しています。そのため、旅館や商店が狭い場所に密集する典型的な温泉街とは異なり、農地、住宅、旅館が混在する景観が形成されました。
由布岳を背景に、田畑の間から湯煙が上がる――この「暮らしの中に温泉がある風景」が、後に湯布院の最大の財産となります。現在も由布院は、自らを単なる観光地ではなく、人々の生活が息づく【「生活観光地」】として捉えています。
2.本多静六が示した保養地の可能性
湯布院の将来を考えるうえで、早い時期に重要な提言を行ったのが林学博士・本多静六です。
本多は1924年に由布院を訪れ、「由布院温泉発展策」と題する講演を行いました。自然環境や田園景観を生かし、長期滞在できる保養地として町を整備することの重要性を説いたとされます。
当時はまだ、その構想をすぐ実現できる状況ではありませんでした。しかし本多の提言は、後に町の人々が「由布院は何を目指すべきか」を考える際の重要な原点として再発見されました。
3.1952年のダム計画が町を目覚めさせた
湯布院の町づくりが本格的に始まる契機となったのは、観光振興策ではなく、町そのものを水没させる可能性のある計画でした。
1952年、由布院盆地をせき止め、人工湖の周辺をリゾート地として開発するダム構想が持ち上がりました。水没地域の住民には補償金が支払われる計画でしたが、それは農地や集落、日々の暮らしを失うことを意味しました。
町では賛否が分かれましたが、青年団を中心に反対運動が展開され、計画は実現しませんでした。この経験によって住民たちは、町の将来を外部の開発者に任せるのではなく、自分たちで選択しなければならないと自覚するようになりました。
湯布院の町づくりは、「何を造るか」より先に、何を失ってはならないかを考えることから始まったのです。
4.別府とは異なる「健全な保養温泉地」
1955年、由布院町と湯平村が合併し、新しい湯布院町が誕生しました。
町長となった岩男頴一は、隣接する別府と同じような歓楽型の温泉都市を追いかけるのではなく、温泉、農業、自然環境を結びつけた健全な保養温泉地を目指す方針を示しました。
ここでいう「健全」とは、娯楽を否定するという意味ではありません。
- 静かに休養できること
- 自然の中を歩けること
- 良質な食事を味わえること
- 数日間滞在できること
- 地域の文化や住民と交流できること
を中心とした温泉地を意味しました。
由布院温泉と湯平温泉は1959年に国民保養温泉地に指定されました。国民保養温泉地とは、温泉の効用だけでなく、自然環境、景観、歴史、文化などの面でも、健全な休養地としてふさわしい温泉地を国が指定する制度です。
5.大型開発から自然を守る
1970年、由布院に近い猪の瀬戸湿原でゴルフ場建設計画が持ち上がりました。
旅館経営者や観光関係者、住民たちは「由布院の自然を守る会」を結成して反対運動を展開しました。翌1971年には、単なる反対組織から、町の将来を積極的に考える【「明日の由布院を考える会」】へと発展します。
その後も大規模な別荘地や娯楽施設の開発計画が持ち込まれましたが、住民はその都度議論を重ねました。1972年には自然環境保護条例が制定され、後には建築物や景観に関する独自の規制・指針へとつながっていきました。
湯布院は開発を全面的に拒否したのではありません。
町の規模、自然、景観、暮らしに合わない開発は受け入れない
という姿勢を貫いたのです。
6.若者三人のドイツ視察
町づくりを牽引した代表的人物が、
- 亀の井別荘の中谷健太郎
- 玉の湯の溝口薫平
- 志手康二
の三人です。
1971年、三人は借金をして西ドイツの保養温泉地を視察しました。そこで目にしたのは、巨大な歓楽施設ではなく、自然の中を歩き、温泉に入り、食事や文化を楽しみながら長期間滞在するヨーロッパ型の保養地でした。
この視察によって彼らは、湯布院が目指してきた方向は間違っていないと確信します。
観光施設だけをつくるのではなく、
盆地全体を一つの保養空間として考える
という発想が育っていきました。
旅館も、客を建物の中に囲い込むのではなく、町を歩き、自然や店、文化施設を楽しんでもらう方向へ変化しました。
7.大地震を文化によって乗り越える
1975年、大分県中部地震が発生すると、「湯布院も大きな被害を受けた」という風評が広がり、観光客が減少しました。
町の人々は、派手な宣伝広告だけに頼らず、実際に人を招いて湯布院の健在ぶりを知ってもらおうと考えました。そこから、
- ゆふいん音楽祭
- 牛喰い絶叫大会
- 辻馬車
- 湯布院映画祭
などが次々と始まりました。音楽祭は1975年、映画祭は1976年に始まりました。
特に湯布院映画祭は「映画館のない町の映画祭」として、制作者、俳優、観客が同じ宿に泊まり、直接語り合う交流型の催しとなりました。
音楽や映画を単なる集客道具にせず、町の人々自身も楽しみながら、来訪者との関係を深めたことが重要です。文化イベントは、湯布院に「知的で落ち着いた大人の保養地」という印象を与えました。
8.農業と観光を切り離さない
湯布院では、美しい田園や草原を単なる背景として扱いませんでした。
1972年に始まった「牛一頭牧場運動」では、都市住民が牛の共同オーナーとなり、畜産農家を支援しました。農家の収入を支えながら、都市と農村の人々が交流し、草原景観を守ろうという試みです。
これを基礎として1975年に始まったのが、牧草地で豊後牛を食べ、参加者が思いを大声で叫ぶ「牛喰い絶叫大会」でした。
地域の野菜、肉、乳製品を旅館の料理に生かすことも、湯布院らしい食文化を育てました。
農業は観光開発によって追い出されるものではなく、景観・食事・交流を支える観光の重要な一部と考えられたのです。
9.旅館を町の文化拠点にする
湯布院の代表的な旅館は、豪華さや規模の大きさではなく、木々に囲まれた客室、地元食材による料理、静かな読書空間、喫茶店、ギャラリーなどを重視しました。
旅館の敷地内に宿泊客以外も利用できる食事処や喫茶室をつくり、地元住民、文化人、旅行者が交流する場所としました。こうした小さな文化拠点の周囲に、個性的な店、美術館、工房、飲食店が生まれていきました。
つまり「湯布院ブランド」は、統一された看板や宣伝文句によってつくられたのではありません。
一軒一軒の宿や店が、
- 建物の佇まい
- 接客
- 食事
- 庭
- 音楽や美術
- 地域との関係
にこだわり、その積み重ねによって形成されたのです。
10.景観を町全体で守る
人気が高まると、リゾートマンション、大規模店舗、派手な看板などが増える危険も生じました。
湯布院町は1990年に「潤いのある町づくり条例」を制定し、開発を審査する仕組みを設けました。1998年には建築・環境デザインのガイドブックを作成し、2008年には湯の坪街道周辺で景観計画と景観協定が整備されました。
建物だけを保存するのではなく、
由布岳への眺望、田園、川、樹木、建物の高さや色彩を一つの景観として守る
という考え方です。
観光客が美しいと感じる風景は、自然に永久保存されるわけではありません。土地所有者、農家、事業者、行政、住民の協力によって維持されているのです。
11.湯布院ブランドが成功した理由
湯布院の成功は、次の三点に整理できます。
① 他の温泉地をまねなかった
大型歓楽施設や団体旅行に依存せず、自然、静けさ、小規模な宿、文化を中心にしました。
② 暮らしを観光より上位に置いた
住民が暮らしにくい町は、長期的には旅行者にも魅力を失うと考えました。「住んでよし、訪れてよし」という発想です。
③ 反対運動で終わらせなかった
ダムやゴルフ場に反対するだけでなく、音楽祭、映画祭、農業連携、景観条例など、代わりとなる具体的な価値を生み出しました。
「開発しない」という消極的な選択ではなく、自然と文化を育てること自体を開発と考えたところに、湯布院の独自性があります。
12.成功によって生じた新たな課題
ブランドが広く知られるにつれ、日帰り観光客の集中、交通渋滞、ごみ、静けさの喪失、農地の減少、外部資本による店舗や宿泊施設の増加など、新しい問題も生じています。
由布院温泉観光協会などがまとめた計画でも、観光客が由布院駅から湯の坪街道、金鱗湖へ続く一部の区域に集中していることや、町づくりの理念を知らない外部事業者が増えていることが課題として挙げられています。
現在の由布市は、観光客の数を増やすだけではなく、地域内を循環し、長く滞在してもらう**「滞在型・循環型保養温泉地」**を掲げています。2016年には、その中心組織として由布市まちづくり観光局が設立されました。
まとめ
湯布院は、初めから全国的な高級温泉地だったわけではありません。
その歩みは、
本多静六による保養地構想
→ ダム計画への反対
→ 健全な保養温泉地という方針
→ 大型開発からの自然保護
→ ドイツ保養地の研究
→ 音楽・映画・農業との連携
→ 旅館や店による質の追求
→ 条例と住民活動による景観保全
という積み重ねでした。
湯布院の人々が売ったのは、温泉だけではありません。
由布岳を望む風景、田園の静けさ、土地の食べ物、人との交流、音楽や映画、そして丁寧に暮らす時間
を一つの体験として育てたのです。
湯布院ブランドの本質は、観光客のために町を飾ることではありません。住民が守りたいと思う暮らしを磨き、その価値を旅人と分かち合うことにあるのです。


