【霊界解放シリーズ388】日本戦争遺跡文化財第1号・沖縄陸軍病院壕「戦争の悲惨さ伝える生き証人!」(2023.06.20)
2023年06月20日
【霊界解放シリーズ388】日本戦争遺跡文化財第1号・沖縄陸軍病院壕「戦争の悲惨さ伝える生き証人!」
(5月25日)
沖縄県南風原町には、第二次世界大戦当時、日本軍が沖縄戦に備えて構築した陸軍病院壕群があります。院長をはじめ、軍医、看護師、衛生兵、女学生たちが負傷兵の看護にあたった場所です。
1990年、南風原町は戦争の悲惨さを伝える生き証人として、陸軍病院壕を「町の文化財」に指定しましたが、第二次世界大戦の「戦争遺跡」を文化財に指定したのは、日本全国で初めてのことでした。
当時、日本の文化庁は「100年に満たない戦跡はきちんとした歴史的評価を下すことができないため、史跡指定はできない」として、沖縄戦関連の遺跡は評価に値しないと言い切っていました。
そうした中、国よりも先に南風原町が「戦争遺跡」を「町文化財」に指定したことを契機に、1995年、文化庁は「近代遺跡保護指針」を改正し、史跡指定の対象とする遺跡の時期を「100年以上」から「第二次世界大戦終結頃」まで短縮したのです。
この規定により、同年、広島原爆ドームが国の史跡に指定され、翌年には世界文化遺産に登録されるに至りました。その後、文化庁は戦争遺跡を含む近代遺跡の全国的な調査を開始しました。
2007年から南風原町は、保存状態の良好な壕20号の一般公開および文化センター新設など、戦争遺跡の保存活用の先駆的な役割を担ってきました。壕の中は狭く暗いため、見学時には平和ガイドが案内してくれるとのことです。
陸軍病院壕20号

壕20号は、ランプの暗い明かりの下、麻酔なしで手術が行われた場所です。手術は、傷による感染を防ぐために手足を切断する患部切断がほとんどだったといいます。壕の長さは約70m、高さは1.8m、床幅は1.8m。
患者

気管支に銃創を負い、絶え間なく「ヒュー…ヒュー…」という音を吹き出す兵士、火炎放射器で顔が黒く焼け、目と鼻と口だけが残った顔に包帯を巻いた兵士、胸部に貫通傷を負い、呼吸するたびに背中に開いた穴から「ジュジュ」と泡を吹く兵士、皮膚に膿が溜まった兵士など。
軍医がまさに切断しようとした時、同行した班長が「絶対に切断するな!すぐに治療せよ」と言ってくれたおかげで切断の危機を免れた兵士。治療といっても、せいぜいヨードを塗り包帯を巻くのが精一杯でした。
壕内手術

陸軍病院は44年の大空襲で約40%の医薬品を失いました。そのため45年以降、地上戦で負傷した兵士たちは麻酔なしで手術を受けることもありました。手術は、ランプの薄明かりの下、衛生兵などが体を押さえつけ、体に刺さった砲弾の破片を除去したり、重傷者の手足を切断したりするものでした。
再現された悪臭

血と膿、尿や便、それに汗の匂いが染み込んだ垢にまみれた匂いなど、さまざまな匂いが充満していた当時の壕内の悪臭を再現したもの。
埋められた医薬品

直径3m、深さ1mほどの穴の中に、沖縄南部へ撤退する際に持って行けなかった薬剤や装備が埋められていたといいます。
食事

一日に二度、食事を運ぶ仕事が最も危険でした。朝や夕方、艦砲射撃が止む時間を利用して、学徒兵や看護師、衛生兵たちが交代で炊事場から醤油樽に入れた飯(約100人分14kg)を担ぎ、座り込んだり転げ落ちたりしながら、片道400mほどの山道を往復しました。
おにぎり

運ばれた飯でおにぎりを作りました。最初はテニスボールほどの大きさでしたが、戦況が悪化して食材を確保できなくなると、卓球ボールほどの大きさまで小さくなりました。朝夕2回の食事も、途中から1回に変わりました。
仮埋葬地

戦闘が激しくなるにつれ、礼を尽くして埋葬することができなくなり、爆撃で開いた穴などに遺体を投げ入れるような埋葬になり、手術で切断した四肢や糞尿などの汚物を捨てる場所としても使われたといいます。
三角病棟

一棟は女学生たちの戦場卒業式会場として使われましたが、「近くで爆弾が炸裂するたびに式場が吹き飛んでしまうのではないかという恐怖心で、校長先生の言葉はほとんど耳に入らなかった」といい、翌日、米軍の爆撃で破壊されたといいます。
憲法9条記念碑

日本国憲法第2章 戦争の放棄 第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 ②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
詩「鎮魂」

「額を寄せ合えば戦友が葬られたあの日のように 夜明けの丘 土の郷愁」 「両脚を失った兵士 病院を求め 泥道を這い上る」
平和の鐘
(おわり)



