霊峰富士と修験道の道

霊峰富士と修験道の道
◆噴火を恐れる山から、登って祈る聖山へ
富士山は、日本一高い山であるだけではありません。古くから神の宿る山として畏れられ、平安時代後期以降は修験者が山中で修行する霊場となりました。
今日の富士登山は山頂を目指すスポーツとして捉えられがちですが、かつての登山は、身を清め、神仏の世界へ入り、山頂で祈り、再び俗世へ戻る宗教的な巡礼でした。
「修験道の道」とは、単に山頂へ通じる一本の登山道ではありません。浅間神社、湧水、宿坊、行場、洞穴、森林、山頂火口などを結ぶ、富士山全体の信仰空間だったのです。
1.噴火する富士山への畏れ
古代の富士山は、たびたび噴火を繰り返す恐ろしい山でした。
人々は噴火を、山に宿る神の怒りや威力の表れと考え、山頂へ不用意に近づくのではなく、山麓から山を仰ぎ見て祈りました。これが富士山信仰の初期の形である遥拝です。
噴火を鎮めるため、山麓には浅間大神を祀る浅間神社が設けられました。南麓の富士山本宮浅間大社や、北麓の北口本宮冨士浅間神社などは、こうした富士山遥拝の歴史を受け継ぐ代表的な神社です。
「浅間」という名称は、火山や火の神と深く結びついた信仰を表すと考えられています。のちに浅間大神は木花之佐久夜毘売命と結びつき、富士山本宮浅間大社では現在、木花之佐久夜毘売命が主祭神とされています。
2.眺める山から、登る山へ
富士山の噴火活動が比較的落ち着くと、人々の信仰は次第に変化しました。
山麓から富士山を仰ぐだけでなく、山中へ入り、山頂を目指して修行する宗教者が現れます。平安時代後期から中世にかけて、富士山は日本古来の山岳信仰と、密教などの仏教思想が結びついた修験道の道場となりました。ユネスコも、12世紀に富士山が神道的要素を含む修験的仏教の修行地になったと説明しています。
修験道を行う宗教者は修験者または山伏と呼ばれます。
山伏は、山を征服すべき対象とは考えませんでした。山には神仏が宿り、厳しい自然の中で修行することによって、心身を清め、霊的な力を得られると考えたのです。
富士山への信仰登山は、しばしば富士禅定と呼ばれました。「禅定」とは本来、心を集中させて静かな境地へ入ることです。富士山を登る行為そのものが、一種の宗教修行と理解されていたのです。
3.末代上人と富士山修験
富士山南麓における本格的な登拝の始まりと深く関係するのが、平安時代末期の修行僧末代上人です。
末代上人は12世紀前半から中ごろ、富士山中で修行した人物とされ、後に村山修験の祖として仰がれました。末代上人の活動を契機として、南麓から富士山へ登る信仰登山が本格化したと考えられています。
修験者たちは、山中にこもって祈り、断食、読経、滝行、護摩修行などを行いました。富士山は、日本最高峰という高さだけでなく、火を噴く山、雪に覆われる山、雲上にそびえる山として、生と死を超える神仏の世界と考えられたのです。
4.村山修験の中心・興法寺
富士山修験の中心地として発展したのが、現在の静岡県富士宮市にある村山浅間神社です。
明治以前、この場所は浅間神を祀る神社と、密教・修験道の寺院が一体となった富士山興法寺と呼ばれていました。境内には現在も、
- 浅間神社の社殿
- 大日如来を祀る大日堂
- 護摩を焚いた護摩壇
- 登拝前に身を清めた水垢離場
- 修験道関係の仏像
などが残されています。
14世紀初頭には、興法寺の僧・頼尊が富士山の修験者を組織化し、村山は富士修験の中心として発展しました。京都の修験道本山である聖護院とも深い関係を持ち、西日本方面からも多くの修験者や道者が訪れたとされています。
村山は、単なる登山口ではありませんでした。
修験者の教育、登山の許可、宿泊、祈祷、山道の管理などを行う、富士山信仰の宗教都市だったのです。
5.大宮・村山口登拝道
村山修験の人々が富士山へ登った代表的な道が、大宮・村山口登拝道です。
この道は、おおむね次のようにつながっていました。
富士山本宮浅間大社
↓
村山浅間神社・興法寺
↓
富士山南西斜面の山中
↓
山頂南側
現在の富士宮口登山道につながる古い登拝路です。富士山本宮浅間大社を起点として、村山浅間神社を経由し、山頂南側へ達しました。
15世紀から16世紀ごろになると、専門の修験者だけでなく、修験者に導かれた一般の人々もこの道を登るようになりました。
16世紀制作とされる『絹本著色富士曼荼羅図』には、登拝者が浅間大社を参拝し、湧玉池で身を清め、村山で祈りを捧げた後、富士山へ向かう姿が描かれています。
6.登山前の水垢離
富士登拝では、山へ入る前に身体と心の穢れを落とすことが重視されました。
富士山本宮浅間大社の境内には、富士山の伏流水が湧き出す湧玉池があります。道者たちは、ここで冷たい水を浴びる水垢離を行い、身を清めてから村山へ向かいました。
村山浅間神社にも水垢離場がありました。
ここで身を清め、社殿と大日堂に参拝し、護摩壇で祈祷を受けてから山中へ入ったと考えられています。
この順序には重要な意味があります。
登拝者は、日常生活のまま山へ入るのではありません。水によって俗世の穢れを落とし、神仏の領域へ入る準備をしたのです。
7.富士山そのものが曼荼羅だった
修験者たちは、富士山を単なる地形ではなく、仏教の世界観を表す立体的な曼荼羅として理解しました。
山頂の火口は、神仏が鎮座する聖なる中心とされました。火口を取り囲む峰々は、蓮の花の八枚の花弁に見立てられ、「八葉」または「お鉢」と呼ばれました。
富士山は、仏教的には大日如来の世界と結びつけられました。大日如来は、宇宙そのものを象徴する密教の中心仏です。
修験者にとって富士登山とは、大日如来の身体ともいうべき山を一歩ずつ登り、仏の世界の中心へ近づいていく行為でした。
8.山頂で行われた三つの祈り
山頂へ到達した修験者や道者は、単に記念として頂上に立ったのではありません。山頂では、いくつもの宗教行為が行われました。
御来光を拝む
現在の御来光は山頂から見る日の出を意味しますが、古くは雲や霧の中に現れる光の現象を、仏が来迎する姿として捉えることもありました。
登拝者は、太陽の光を仏の出現として拝みました。
内院を拝む
富士山頂の巨大な火口は、内院と呼ばれました。
そこには浅間大神・浅間大菩薩、あるいはその本地仏である大日如来が鎮座すると考えられました。登拝者は火口をのぞき込み、その深い闇の中に神仏の世界を感じたのです。
お鉢巡りをする
火口を取り囲む峰々を巡る行為が、お鉢巡り・八葉巡りです。
登拝者は火口の周囲を回りながら、それぞれの峰を仏の世界になぞらえて礼拝しました。現在のお鉢巡りは山頂観光の一つにもなっていますが、その起源には修験道の巡礼があります。
9.登拝は「死と再生」の旅
修験道では、山中へ入ることが象徴的な死、山から戻ることが再生と結びつけられる場合があります。
富士登拝も、
水で身を清める
↓
人里を離れる
↓
暗い森林へ入る
↓
岩と砂の荒涼とした世界を登る
↓
雲上の山頂で神仏に出会う
↓
再び人里へ戻る
という旅でした。
麓の豊かな水と森林、途中の暗い樹海、森林限界を越えた荒々しい火山斜面、山頂の火口という景観の変化そのものが、俗世から神仏の世界へ至る物語になっていたと考えられます。
その意味で、登拝道は目的地へ急ぐための交通路ではありません。歩く一歩一歩が修行だったのです。
10.南麓だけではなかった信仰の道
富士山には、方角ごとに複数の信仰登山道が発達しました。
代表的なものには、
- 大宮・村山口登拝道
- 須山口登山道
- 須走口登山道
- 吉田口登山道
などがあります。
南西麓の村山は中世修験道の中心地でした。一方、北麓でも13~14世紀には二合目付近に役行者堂が設けられ、修験道の拠点が形成されました。
それぞれの道には浅間神社、宿坊、祠、行場、水垢離場などが設けられました。富士山は一つの入口から登る山ではなく、各地域の信仰と結びついた複数の「聖なる道」を持つ山だったのです。
11.吉田口と富士講の発展
中世の富士修験では村山が重要な位置を占めましたが、江戸時代になると、北麓の吉田口登山道が大きく発展しました。
戦国時代から近世初期に活動したと伝えられる長谷川角行の教えは、弟子たちに受け継がれ、江戸時代には富士講という民衆信仰に発展しました。
富士講の人々は「講」と呼ばれる集団をつくり、資金を出し合って代表者を富士山へ送りました。江戸を中心に富士講が広まると、多くの庶民が北口本宮冨士浅間神社から吉田口を通って山頂を目指しました。
吉田の町には、登拝者を宿泊させ、祈祷や登山の世話をする御師の家が並びました。
御師は単なる宿屋の主人ではありません。富士山の教えを伝え、登山の準備を整え、神仏と登拝者を仲介する宗教者でした。
吉田口登山道は、北口本宮冨士浅間神社から山頂の久須志神社までを結び、現在も麓から山頂まで歩くことのできる歴史的登拝道です。道沿いには神社、小祠、山小屋、茶屋跡、富士講の石碑などが残っています。
12.明治維新と村山修験の衰退
長く続いた富士山の神仏習合は、明治維新によって大きく変わりました。
1868年の神仏分離政策により、富士山興法寺は廃止され、村山浅間神社と大日堂に分けられました。さらに1872年には修験道が禁止され、多くの修験者が還俗しました。
これによって、浅間神と大日如来を一体として礼拝してきた村山修験の組織は大きく衰退します。
交通事情の変化も影響しました。1889年に東海道線が開通すると、鉄道を利用しやすい御殿場方面から登る人が増え、大宮・村山口登拝道の利用は減少していきました。
かつて多くの修験者や道者が歩いた村山道の一部は、森林の中に埋もれ、古道となりました。
13.それでも残った修験道の記憶
制度としての修験道は禁止されても、富士山信仰が完全に消えたわけではありません。
村山浅間神社には、大日堂、護摩壇、水垢離場、修験道関係の仏像が残りました。吉田口には御師住宅、富士講碑、茶屋跡、祠堂が残り、須山口や須走口にも信仰登山の痕跡が伝えられています。
富士講の伝統を受け継ぐ人々による登拝や、村山修験に由来する行事も形を変えながら続いています。
現在、登山者が何気なく通る神社、山小屋、石碑、洞穴、登山道の中には、かつての修験者が祈りを捧げた場所が少なくありません。
14.世界文化遺産となった理由
富士山は2013年、【「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」】として世界文化遺産に登録されました。
登録の対象は山頂だけではありません。富士山の山体、登拝道、浅間神社、御師住宅、湖沼、湧水地、白糸ノ滝、三保松原など、25の構成資産によって富士山の信仰と芸術の歴史が示されています。
富士山が文化遺産として評価されたのは、その形が美しいからだけではありません。
人々が、
- 噴火を恐れて遥拝した
- 修験者が山中で修行した
- 庶民が富士講をつくって登拝した
- 和歌、絵画、文学に富士山を表現した
という、長い信仰と文化の歴史が残されているからです。
霊峰富士の本当の姿
富士山は、遠くから見ると左右対称の穏やかで美しい山です。
しかし、その内部には噴火口があり、斜面には溶岩や火山灰が広がり、山麓には洞穴、湧水、深い森林があります。
人々はその美しさだけでなく、
火を噴く恐ろしさ
山頂の天空への憧れ
雪と水をもたらす恵み
死と再生を感じさせる自然
のすべてを受け止めて、富士山を霊峰と考えました。
まとめ
霊峰富士の修験道は、一本の登山道の名前ではありません。
それは、
浅間神社で祈り、
湧水で身を清め、
村山で護摩を焚き、
深い森林と荒々しい火山斜面を越え、
山頂火口を神仏の世界として巡る道
でした。
中世には村山修験が中心となり、近世には富士講が庶民の登拝を広めました。明治の神仏分離によって修験道の組織は失われましたが、その道、神社、行場、石碑、祈りの形は現在まで残されています。
富士山を登ることは、かつて高さを競うことではありませんでした。
俗世を離れ、自分を清め、神仏と出会い、新しい自分となって帰ること。
それが、霊峰富士に刻まれた修験道の道なのです。
(おわり)

