新島襄―同志社創立の苦難と精誠
新島襄・同志社創立の苦難と精誠
◆「一国の良心」を育てる学校に生涯を捧げた人
新島襄は、明治日本を代表する教育者・キリスト教指導者であり、1875年に同志社英学校を創立した人物です。
しかし、現在の同志社大学につながる学校は、十分な資金や社会的理解を得て、順調に設立されたものではありませんでした。キリスト教への警戒、政府の規制、資金難、学生との衝突、健康の悪化など、幾重もの困難の中から生まれた学校でした。
ここでいう新島の「精誠」とは、単なる熱意ではありません。
信じた理想のために危険を引き受け、
人に頭を下げ、資金を集め、
学生一人ひとりを尊重し、
生涯の最後まで教育事業に身を捧げた誠実さ
を意味します。
1.封建社会の壁を越えようとした青年
新島襄は1843年、上州安中藩の江戸屋敷で、藩士の子として生まれました。幼名は七五三太といいます。
幕府の軍艦操練所などで学び、西洋の科学、航海術、政治制度に関心を深めるうち、日本が世界から立ち遅れていることに強い危機感を抱くようになりました。国の将来を知るためには、外国へ行って直接学ばなければならないと考えます。
しかし当時、幕府の許可なく海外へ渡ることは国禁でした。
それでも1864年、21歳の新島は函館から密かに外国船へ乗り込み、日本を脱出します。失敗すれば処罰され、二度と故郷へ帰れない可能性もある、命を懸けた決断でした。
2.アメリカで受けた、見知らぬ人々の支援
新島は上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換え、1865年にボストンへ到着しました。
船主アルフェウス・ハーディーは、新島が記した脱国の理由を読んでその志に心を動かされ、フィリップス・アカデミー、アーモスト大学、アンドーヴァー神学校で学べるよう、物心両面から支援しました。新島は1866年にキリスト教の洗礼を受け、1870年にアーモスト大学を卒業しています。
新島がアメリカで学んだのは、英語や科学だけではありませんでした。
家柄や身分にかかわらず、一人の人間として扱われる経験、信仰に基づいて他者を助ける人々の姿、私立学校を市民が支える社会の仕組みに触れました。これが後の同志社の根本理念である、
- 自由
- 自治自立
- 良心
- 人格の尊重
へと結びついていきます。
3.国家の力だけではなく、「人」を育てる
1872年、新島は欧米を訪問していた岩倉使節団と出会い、教育制度調査に協力しました。
欧米各国の学校を視察する中で、新島は、近代国家の強さは軍隊、工場、法律だけから生まれるのではなく、それらを正しく用いる人格を備えた人間から生まれると確信します。
知識や技術だけを持ち、良心を持たない人物が権力を握れば、その知識は社会を傷つけることもあります。
そこで新島は、キリスト教を徳育の基礎とし、知識と人格をともに育てる学校を日本に造ろうと決意しました。
4.アメリカで訴えた学校設立の夢
1874年10月、アンドーヴァー神学校を卒業した新島は、アメリカン・ボードの年次大会で演説しました。
新島は、日本にキリスト教主義の学校を設立したいと訴え、約5000ドルの寄付の約束を得ました。当時の5000ドルは大金でしたが、それでも大学を造るには十分ではありません。ここから長い募金と協力者探しが始まりました。
同志社は、新島一人の財産で建てられた学校ではありません。
アメリカの教会関係者、宣教師、日本の実業家、政治家、教育者、学生、卒業生など、国境を越えて新島の志に共鳴した人々の献金と協力によって築かれました。
5.大阪で挫折した学校設立計画
帰国した新島は、最初から京都に学校を造ろうとしたわけではありません。当初は大阪での設立を目指し、商人から寄付の約束も得ていました。
しかし当時は、キリスト教禁制の高札が撤去された直後であり、宣教師が学校で教えることへの警戒が強く残っていました。大阪では、宣教師を教員として用いることが認められず、計画は行き詰まります。
そこで新島を助けたのが、元会津藩士で京都府顧問を務めていた山本覚馬でした。覚馬や京都府知事・槇村正直らの協力により、京都での学校設立が認められます。
ただし、無条件ではありませんでした。
保守的な人々の反発を避けるため、開校当初は学校で聖書を教えないという条件を受け入れざるを得なかったとされています。新島は理想を捨てたのではなく、まず学校を開き、教育の実績を積みながら少しずつ道を開こうとしたのです。
6.教員2人、生徒8人からの出発
1875年11月29日、京都・寺町丸太町の借家で、官許同志社英学校が開校しました。
教員は新島襄と宣教師J・D・デイヴィスの2人、生徒はわずか8人でした。現在の大規模な同志社からは想像できない、小さな出発でした。
「同志社」という名称には、志を同じくする者が結びつく結社という意味が込められています。
新島は学校を、自分が学生を支配する場所とは考えませんでした。教師と学生が同じ志を持ち、共に学び、共に社会をつくる共同体にしようとしたのです。
7.京都社会の警戒と財政上の苦しみ
同志社の初期財政は、アメリカからの寄付に大きく依存していました。そのため政府や社会の一部からは、外国の宗教団体が日本の教育へ影響を及ぼすのではないかという疑念も向けられました。
新島は、一方ではアメリカの支援者に学校の必要性を説明し、もう一方では日本国内で、同志社が外国勢力のための学校ではなく、日本の将来を担う人物を育てる学校であることを訴え続けました。
外国の援助を受けながら、学校の自主性と日本人による運営を確立することは、同志社草創期の大きな課題でした。
8.学生の反発と「自責の杖」
1880年、同志社英学校では学級統合をめぐって学生のストライキが起こり、学校内が混乱しました。
処分問題が生じた後、新島は朝礼で、一連の騒動の責任は学生や幹事だけでなく校長である自分にもあるとして、杖で自分の掌を打ちました。杖は折れたと伝えられ、この出来事は「自責打掌」または「自責の杖」と呼ばれています。
この行為自体を今日の教育現場で模範化する必要はありません。しかし、責任を学生だけに押しつけず、指導する側である自分の責任を公の場で認めたところに、新島の教育者としての姿勢が表れています。
彼にとって学生は、学校経営の都合に従わせる対象ではなく、人格を持った「同志」でした。
9.女性も社会を変える人物に
新島は、男子教育だけで社会を改革できるとは考えませんでした。
1876年には、アメリカ人宣教師スタークウェザーや妻・八重らの協力によって女子塾を開きました。開設当初の生徒は12人で、後の同志社女学校、同志社女子大学へつながっていきます。
新島は、女性を家庭内の補助的存在としてだけでなく、人権意識と独立心を持ち、社会の「改良者」となる存在として教育しようとしました。
これは女性の教育機会が限られていた明治初期において、先進的な構想でした。
10.「一国の良心」を育てる大学
新島の目標は、英語を教える小規模な学校だけではありませんでした。
自然科学、文学、神学、政治、経済などを備えた総合的な私立大学をつくることを目指していました。
1888年、新島は「同志社大学設立の旨意」を20以上の新聞・雑誌に発表し、広く国民へ協力を呼びかけました。新島が目指したのは、政府が上からつくる大学ではなく、「人民の手」によって設立される私立大学でした。
そこで掲げられた教育目的が、
「良心を手腕に運用するの人物」
の養成です。
良心を心の中に持つだけではなく、学んだ知識、技術、社会的地位を、実際に人々のために用いる人物を育てようとしたのです。
さらに新島は、国を本当に支えるのは少数の英雄ではなく、教育と知識と品行を備えた人民であり、そうした人々を【「一国の良心」】と呼びました。
11.募金の旅の途中で倒れる
新島は大学設立資金を集めるため、日本各地を奔走しました。
しかし、長年の激務によって健康を害していました。1889年末、募金運動中に前橋で倒れ、神奈川県大磯で療養します。
1890年1月23日、新島は徳富蘇峰や小崎弘道らに遺言を託し、46歳で亡くなりました。大学完成を見ることはできませんでした。
遺言では、学生を丁重に扱うこと、独立心が強く型にはまらない学生をむやみに抑圧せず、その個性に従って導くことなどを求めました。
最後まで新島の関心は、建物や制度ではなく、そこで学ぶ一人ひとりの学生に向けられていたのです。
12.新島の死後、志が大学となる
新島の死後、教え子、教職員、支援者たちは、その遺志を引き継ぎました。
1912年には専門学校令による同志社大学が開校し、1920年には大学令による同志社大学が正式に発足しました。新島が生前に描いた大学構想は、死後、段階的に実現されたのです。
新島個人の生命は尽きても、新島が育てた「同志」が学校を守り、発展させました。
ここに「同志社」という名称の本当の意味が表れています。
同志社創立に見る新島襄の精誠
新島襄の精誠は、次の四つに表れています。
第一は、命を懸けて学んだことです。
国禁を犯してまで海外へ渡ったのは、個人的な成功のためではなく、日本の将来を開く道を探すためでした。
第二は、理想を現実へ移す忍耐です。
大阪で拒まれ、京都でも条件を課されましたが、完全な条件が整うまで待つのではなく、小さな学校から始めました。
第三は、人を支配せず育てようとしたことです。
学生を一人の人格として尊重し、失敗が起きたときには、教育者である自分の責任も引き受けました。
第四は、完成を見られなくても働き続けたことです。
自分の名声や在任中の成果ではなく、次の世代が完成させることを信じて、募金と教育に生涯を捧げました。
まとめ
新島襄が創立した同志社は、最初から大きな大学だったのではありません。
国禁を犯した一人の青年の脱国
見知らぬ外国人から受けた支援
キリスト教教育への社会的反発
大阪での挫折と京都での再出発
教員2人、生徒8人の小さな学校
学生との衝突、資金難、病との闘い
そして完成を見ないまま終わった生涯
これらの苦難を通して築かれました。
新島襄が求めたのは、単に知識の多い人間ではありません。
良心を持ち、その良心を社会の中で実行し、自分の力を他者のために用いる人間でした。
同志社創立の物語は、一人の偉人の成功物語というよりも、高い志が人から人へ受け渡され、未完成の事業が「同志」の手によって実現していく物語なのです。
(おわり)


