いわき炭鉱閉山とフラによる町おこし
いわき炭鉱閉山とフラによる町おこし
「黒いダイヤ」の町から「常夏の楽園」へ
福島県いわき市のフラ文化は、単なる観光イベントとして始まったものではありません。石炭産業の衰退によって存続の危機に立たされた炭鉱会社と地域が、採炭の妨げだった温泉を観光資源へ転換し、新しい雇用と町の未来をつくろうとした取り組みから生まれました。
重要なのは、炭鉱が完全に閉山してから町おこしを始めたのではなく、閉山が避けられないと予測された時点で、先回りして新産業を育てたことです。
1.石炭で栄えた常磐の町
現在の福島県いわき市から茨城県北部にかけては、かつて「常磐炭田」が広がっていました。
明治時代以降、常磐地方の石炭は首都圏に近いという利点を生かし、工場、鉄道、家庭用燃料などとして大量に供給されました。湯本、内郷、好間などには炭鉱住宅、学校、病院、商店、娯楽施設が整備され、炭鉱を中心とする地域社会が形成されました。現在のいわき市には、常磐炭田の採炭史を伝える「いわき市石炭・化石館ほるる」が設けられています。
炭鉱は単なる職場ではありませんでした。会社が住宅や医療、教育、文化活動まで支える、生活共同体そのものだったのです。
2.石油への転換と炭鉱の危機
1950年代後半から1960年代にかけて、日本の主要なエネルギー源は石炭から安価な石油へ移っていきました。いわゆるエネルギー革命です。
石炭の需要と価格が低下すると、常磐炭田でも合理化、坑口の集約、人員削減、中小炭鉱の閉山が相次ぎました。炭鉱に依存していた地域では、人口流出、商店街の衰退、自治体税収の減少などが重なりました。
常磐炭礦の中心であった磐城礦業所は1971年4月に閉山し、西部礦業所も1976年に閉山しました。これによって、いわき地域における約120年間の本格的な坑内採炭は終わりを迎えました。
3.炭鉱の「厄介者」だった温泉
常磐湯本は、古くから温泉地として知られていました。しかし、炭鉱にとって地下から大量に湧き出す温泉水は歓迎できるものではありません。
坑内に水が流れ込めば採掘できないため、炭鉱会社は大量の電力を使って地下水をくみ上げ、排水し続けなければなりませんでした。温泉は、採炭の費用を増やす「敵」でもあったのです。
ところが石炭産業の先行きが暗くなると、発想が逆転します。
石炭を掘るために捨ててきた温泉を、観光産業に利用できないか。
この「厄介者を地域資源に変える」という考えが、常磐ハワイアンセンター誕生の出発点となりました。施設は炭鉱時代の地下湧水を利用し、温泉と南国風の娯楽を組み合わせる構想として計画されました。
4.なぜ「ハワイ」だったのか
1960年代、海外旅行は一般家庭にとってまだ高価で、ハワイは憧れの外国旅行先でした。
そこで、大きな温室型ドームの中に温泉プール、ヤシの木、熱帯植物、フラやポリネシアンダンスの舞台を設け、東北にいながら南国気分を味わえる施設が構想されました。
1964年に運営会社となる常磐湯本温泉観光株式会社が設立され、1966年1月15日に常磐ハワイアンセンターが開業しました。約7,000平方メートルの大ドームには、温泉の熱を利用して本物の熱帯植物が育てられました。開業当時の宣伝文句は、
千円もってハワイに行こう
でした。入場料は400円で、アロハシャツやムームーも各300円ほどで販売されていました。
1990年には名称を現在のスパリゾートハワイアンズへ変更しています。
5.フラガールの誕生
施設の中心的な魅力として考えられたのが、専属女性ダンサーによるポリネシアンショーでした。
1965年4月、ダンサーを育成するために常磐音楽舞踊学院が開校します。しかし当時の炭鉱町では、若い女性が肌を見せて人前で踊ることへの抵抗が強く、募集は容易ではありませんでした。
それでも炭鉱関係者の娘たちを中心に18人が集まり、東京でプロダンサーとして活動していたカレイナニ早川の指導を受けました。約8か月の厳しい訓練を経て、1965年12月には東京・サンケイホールで旗揚げ公演を成功させました。
彼女たちは、後に「フラガール」と呼ばれるようになります。
6.女性たちが担った産業転換
フラガールの誕生には、単なるショー以上の意味がありました。
炭鉱の職場は主として男性を中心に成り立っていましたが、新しい観光産業では、ダンサー、接客、宿泊、飲食、物販などで女性が重要な役割を担いました。
つまり地域の中心人物が、
石炭を掘る男性労働者から、笑顔と踊りで客を迎える女性たちへ
大きく変わったのです。
父親や兄弟が働く炭鉱が縮小していく一方で、その娘たちが新産業の象徴となりました。この世代交代が、いわきの町おこしを特別な物語にしています。
ただし、観光事業だけですべての炭鉱労働者の雇用を引き受けられたわけではありません。閉山に伴う失業、転職、人口流出、炭鉱共同体の解体という痛みは残りました。ハワイアンセンターは閉山の苦難を消したのではなく、地域が次の時代へ進むための重要な受け皿の一つになった、と見るのが適切です。
7.フラが成功した理由
地域にあるものを利用した
新しい資源を外から持ち込むだけでなく、もともと地下から湧いていた温泉を活用しました。採炭の障害だった地下水を、温泉プールと観光の資源へ転換したのです。
物語を持つ観光地だった
単にプールやホテルを建設しただけではありません。炭鉱町の娘たちが新しい踊りに挑み、町の未来を切り開くという物語が、施設の魅力と結びつきました。
地元雇用を生み出した
観光施設は、ダンサーだけでなく、ホテル、飲食、清掃、設備管理、交通、土産品など幅広い仕事を生みました。
本格的な舞台芸術を育てた
フラを一時的な余興にせず、専門の舞踊学院を設けて継続的にダンサーを育成しました。これによって世代を超える文化として定着しました。常磐音楽舞踊学院は、1965年の創立以来、専属ダンサーの育成を続けています。
8.映画『フラガール』による再発見
2006年には、この産業転換と初代ダンサーたちの奮闘を題材にした映画『フラガール』が公開されました。
映画は史実を基礎にしながら脚色を加えた作品ですが、常磐ハワイアンセンター創設期の苦悩と、若い女性たちの成長を全国に伝えました。日本アカデミー賞最優秀作品賞などを受賞し、「フラガール」という呼称が広く定着する契機にもなりました。
これにより、ハワイアンズは娯楽施設としてだけでなく、地域再生の象徴として認識されるようになりました。
9.東日本大震災と再び立ち上がったフラガール
2011年の東日本大震災では、スパリゾートハワイアンズも被災し、長期休館を余儀なくされました。
踊る舞台を失ったフラガールたちは、いわき市内の避難所を皮切りに「フラガール全国きずなキャラバン」を実施しました。全国26都府県と韓国・ソウルを含む125か所で247回の公演を行い、福島といわきの復興を訴えました。
炭鉱閉山期に町を励ましたフラガールは、震災後にも再び地域の希望を担ったのです。
10.この町おこしから学べること
いわきの転換が示したのは、地域再生とは過去を捨てることではない、という点です。
炭鉱を否定してハワイを造ったのではありません。
- 炭鉱から湧いた温泉を利用する
- 炭鉱の家族を新産業の担い手にする
- 炭鉱会社の組織や土地を転用する
- 炭鉱の記憶を博物館や映画で次世代へ伝える
というように、炭鉱時代の資源、人材、歴史を別の形で生かしました。
その意味で、いわきの町おこしは、
地下から石炭を掘り出す町から、人の笑顔と文化を生み出す町への転換
だったといえます。
まとめ
いわきのフラによる町おこしは、炭鉱閉山後に思いついた観光策ではありません。石炭から石油へ移る時代を見越し、炭鉱がまだ操業していた1960年代前半から準備された産業転換でした。
採炭を妨げていた温泉を観光資源に変え、炭鉱関係者の娘たちをフラガールとして育成し、1966年に常磐ハワイアンセンターを開業しました。その後、フラは施設の余興を超えて、いわきの文化と復興の象徴になりました。
この物語の本当の価値は、「炭鉱が観光地に変わった」というだけではありません。地域の衰退を前にした人々が、過去の産業が残したものを見直し、女性たちの力と新しい文化によって、町の未来をつくり直したことにあるのです。
(おわり)


