阿寒湖のマリモの神秘
阿寒湖のマリモの神秘
◆風と波と森が育てる、湖底の緑の球体
北海道東部、雄阿寒岳や雌阿寒岳に囲まれた阿寒湖。その湖底には、深い緑色をした大小の球体が、静かに寄り添うように群生しています。
これが、国の特別天然記念物に指定されている【「阿寒湖のマリモ」】です。
マリモの不思議は、丸く愛らしい姿だけにあるのではありません。一本一本は目に見えるほど細い藻の糸にすぎません。それが水中で集まり、風と波に回されながら球体となり、崩れては再び生まれます。
阿寒湖のマリモは、まさに湖そのものが長い年月をかけて生み出した、生きた自然造形なのです。
1.マリモは「苔」ではない
「マリモ」という名前から、緑色の苔の一種と思われることがありますが、実際には淡水に生育する緑藻類です。学名は Aegagropila linnaei といいます。
丸いマリモ一つが、一株の植物なのではありません。細く枝分かれした「糸状体」と呼ばれる藻が無数に集まり、集合体をつくっています。一本一本の糸状体が光合成をしながら生きているのです。
阿寒湖には、マリモが岩などに付着して生育する着生型、水中に漂う浮遊型、糸状体が集まった集合型があります。私たちがよく知る丸いマリモは、この集合型が特別な環境の中で球状に成長したものです。
2.川上瀧彌による発見と命名
阿寒湖のマリモを学術的に世に紹介したのは、北海道の植物学者・川上瀧彌です。
川上は札幌農学校の学生だった1897年、阿寒湖西部のシュリコマベツ湾で球状の藻を採集しました。そして翌1898年、『植物学雑誌』に採集記録を発表し、その球形から「毬藻」という和名を付けました。
「毬」は糸を巻いて作った丸い玉を意味します。
無数の藻の糸が集まって緑色の毬のようになった姿を見て、川上は「毬藻」と名づけたのです。
ただし、マリモという生物そのものが阿寒湖だけに存在するわけではありません。マリモは北半球の高緯度地域を中心に分布し、日本でも北海道や本州の複数の湖沼で確認されています。特別なのは、阿寒湖ではマリモが巨大で美しい球体となり、大規模な群落をつくることです。
3.なぜマリモは丸くなるのか
マリモを球形にする最大の力は、阿寒湖に吹く風と波です。
阿寒湖では南風が吹くと、マリモ群生地の浅い湖底に波が生じます。その波によって、マリモは遠くまで転がっていくのではなく、同じ場所を前後に揺れながら、ゆっくりと回転します。
この回転には、いくつもの働きがあります。
まず、マリモの全表面に光が当たります。一方だけが湖底に接したままでは、下面の藻が光合成できずに弱ってしまいます。しかし、波によって回転すれば、すべての面が交代で光を受けることができます。
さらに回転することで、表面に付着した泥や細かな堆積物が振り落とされます。波に揺られながら表面が磨かれ、藻の糸が密にそろった、ビロードのような球体へ整えられていくのです。
したがって、マリモの丸さは自ら設計した形ではありません。
藻の成長する力と、
湖水が動かす力とが、
長い時間をかけて作り上げた形
なのです。
4.阿寒湖でなければ巨大になれない理由
マリモを水槽に入れて回転させれば、阿寒湖と同じ巨大な球体が簡単にできるわけではありません。
阿寒湖では、いくつもの自然条件が偶然のように重なっています。
遠浅の湾
阿寒湖の北部には、水深が浅く、緩やかに傾斜する湾があります。強すぎない波が湖底まで届き、マリモを適度に動かします。
特有の風と波
南風によって生じる波は、マリモを破壊するほど強すぎず、止まったままにするほど弱くもありません。球体を維持するのに適した揺れと回転を生み出します。
湖底から湧き出す水
湖底や周辺から供給される湧水は、マリモの生長を助けます。
適した底質
砂、泥、岩などの分布が場所によって異なり、着生型・浮遊型・集合型という多様な生活形を生み出しています。
火山がつくった複雑な地形
阿寒湖は火山活動によって形成されたカルデラ湖を起源とし、噴火、浸食、堰き止め、土砂の堆積を繰り返して現在の湖盆地形となりました。こうした地形が遠浅の湾や湧水環境をつくりました。
つまり阿寒湖のマリモは、マリモという生物だけを守れば存続できるものではありません。
火山、森、川、湧水、湖底、風、波のすべてがそろって、初めて大きな球体が育つのです。
5.内部には「年輪」がある
大型のマリモを調べると、内部には層状の構造が見られます。
マリモは表面で光合成をしながら成長します。しかし、球体が大きくなるにつれて中心部には光が届かなくなり、内側の藻は次第に分解されます。そのため、大きなマリモの内部は空洞になります。
研究では、マリモに球形の層、いわば「年輪」に似た構造が形成されることも確認されています。ただし樹木のように、一つの輪が必ず一年を表すわけではありません。氷に覆われる冬季を含む光環境や生育条件が、層の形成に関係すると考えられています。
外側は鮮やかな緑色で成長を続けながら、内部では古い部分が分解され、栄養が再利用される――マリモの球体の中では、成長と死、再生が同時に進んでいるのです。
6.大きくなり、崩れ、再び生まれる
マリモは永久に一つの球体として生き続けるわけではありません。
大型化して内部が空洞になると、波や自らの重さによって割れたり、崩れたりします。しかし、それは必ずしも生命の終わりではありません。
崩れた断片の表面から再び藻が成長し、波によって転がされる条件が整えば、小さな球状体へ戻る可能性があります。阿寒湖の大型マリモは、成長と崩壊を周期的に繰り返すことが知られています。
人間の目には、完全な球体が壊れることは悲しい出来事に見えます。
しかし自然の中では、
大きくなる
↓
内部が空洞になる
↓
崩れる
↓
断片から新しい球体が育つ
という循環も、マリモの生命を次代へつなぐ仕組みなのです。
7.世界でも特別な大型球状マリモ
球形に近いマリモは、かつてヨーロッパや北米などの湖にも存在しました。しかし、水質汚染、湖岸開発、水位変化などによって、多くの地域から姿を消しました。
現在、直径12センチを超える大型球状マリモが自然状態でまとまって生育する場所として、阿寒湖は世界で唯一とされています。阿寒湖では直径30センチを超えるものも確認されています。
一個の珍しいマリモが残っているだけではありません。
大小さまざまな球体が湖底に集まり、風と波によって動きながら世代をつないでいることに、阿寒湖の世界的価値があります。
8.天然記念物から特別天然記念物へ
阿寒湖のマリモは、学術的価値と希少性から、1921年に国の天然記念物に指定されました。
さらに1952年3月29日には、文化財の中でも特に重要なものとして、国の特別天然記念物に指定されました。
現在、主な群生地への一般の立ち入りは厳しく制限されています。湖底からマリモを採取して持ち帰ることもできません。
観光客が見学する場合は、遊覧船でチュウルイ島へ渡り、マリモ展示観察センターで保護・展示されているマリモを見ることになります。
9.1950年、マリモが大量に枯れた危機
阿寒湖のマリモ保護が本格化するきっかけとなったのは、1950年に起きた深刻な被害でした。
水力発電などに伴う過度の取水によって阿寒湖の水位が下がり、浅瀬にあった多くのマリモが水面上へ露出して枯死したのです。
マリモは水中では波や光を受けて生きていますが、陸上にさらされれば乾燥や高温によって傷みます。
この事件を契機として、地域住民による愛護活動、研究調査、保護組織の設立が進みました。阿寒湖の人々は、マリモが観光資源である以前に、湖の環境全体が生み出した、かけがえのない生命であることに気づいたのです。
10.「まりも祭り」に込められた祈り
1950年に始まったのが、現在まで続くまりも祭りです。
この祭りは太古から続く古代祭祀ではなく、危機に陥ったマリモを保護し、湖へ還そうという近代の自然保護運動から始まりました。その後、阿寒湖周辺のアイヌ民族の人々が中心となり、カムイノミなどの祈りや古式舞踊を伴う祭りとして育てられてきました。
祭りでは、マリモを迎え、松明とともに運び、最後に湖へ還します。
そこには、
自然のものを人間だけの所有物にしない
湖から受け取った生命を、再び湖へ返す
自然と人間との関係を正しく結び直す
という祈りが表現されています。
アイヌ文化には、動物、植物、火、水、道具など、自然界のさまざまな存在に魂や霊性を認め、敬意を払う世界観があります。まりも祭りは、科学的な自然保護活動と、自然に対する祈りが結びついた阿寒湖独自の行事となっています。
11.保護された今も続く危機
特別天然記念物に指定され、群生地への立ち入りが規制されても、マリモの危機がなくなったわけではありません。
2025年に公表された研究では、湖底の堆積物に残る環境DNAなどを分析した結果、約120年前の阿寒湖には、現在の10倍から100倍に相当するマリモの生物量があったと推定されました。
特に20世紀前半の森林伐採や水力発電用の取水が盛んだった時期に大きく減少し、森林伐採に伴う土砂の流入や人為的な水位変動が重大な影響を与えたと考えられています。
現在も、
- 湖底への泥や土砂の堆積
- 水位の変動
- 他の水草による被覆
- 水温や結氷期間の変化
- 外来生物の影響
- 強い波による湖岸への打ち上げ
などが、マリモの生育に関わる課題となっています。釧路市は科学委員会を設け、群生地の調査、水草除去試験、破損した球状マリモの修復・再生などを検討しています。
12.マリモを守ることは森を守ること
マリモは湖底で生きていますが、その生命は湖だけで完結していません。
阿寒湖を取り囲む森に雨や雪が降り、その水が土壌を通って川や地下水となり、湖へ流れ込みます。森が健全であれば、急激な土砂流入を抑え、水質や水量を安定させる働きをします。
反対に森林が大規模に伐採されれば、表土が流れ出し、マリモの表面や湖底を泥が覆う恐れがあります。光合成をするマリモにとって、光を遮る泥は深刻な問題です。
阿寒湖周辺では、広大な集水域の森林が長年にわたって保全されてきました。マリモを守るためには、球体だけを保護するのではなく、周辺の森、河川、湧水、湖岸を一体として守る必要があります。
13.冬の氷もマリモを守る
阿寒湖は冬になると湖面が厚い氷に覆われます。
一見すると、暗く冷たい冬はマリモにとって厳しい季節に思えます。しかし氷と積雪は、強い日射を和らげ、湖底の環境を安定させる「ふた」のような役割を持っています。
近年の研究では、氷に覆われる期間とマリモの成長構造との関係も指摘されています。温暖化によって結氷期間が短くなれば、冬季に強い光を長く受けることが、マリモの光合成組織へ負担を与える可能性も研究されています。
雪と氷は、生命を閉ざすだけのものではありません。
阿寒湖では、冬の静けさもまた、マリモの生命を支える重要な自然条件なのです。
マリモの神秘とは何か
阿寒湖のマリモは、動物のように歩くことも、声を発することもありません。
しかし湖底では、波に揺られて少しずつ回り、すべての面で光を受け、泥を払いながら成長しています。内部では古い組織が分解され、外側では新しい藻が育っています。
大きくなれば割れますが、その破片は再び新しい命へつながります。
そこには、
一つでありながら無数であること
静止して見えながら動き続けていること
内部で死を迎えながら外側で成長すること
崩壊が次の生命の始まりとなること
という不思議があります。
人間は完全な形を保つことに価値を見いだしがちです。しかしマリモは、壊れないことで存続するのではありません。
成長し、崩れ、再び集まる循環によって、生命をつないでいるのです。
まとめ
阿寒湖のマリモは、単に丸くて珍しい植物ではありません。
その姿は、
火山がつくった湖
森が育てる水
湖底からの湧水
南風が起こす波
水中に差し込む光
そして人々の保護と祈り
が重なって生まれました。
1897年に川上瀧彌によって採集され、1921年に天然記念物、1952年に特別天然記念物となりました。しかし、過去には水位低下や森林伐採によって大きく減少し、現在も環境変化の危機にさらされています。
まりも祭りでマリモを湖へ還す行為は、自然を人間の所有物として持ち去るのではなく、本来あるべき場所へ生命を返す祈りです。
湖底に静かに並ぶ緑の球体は、私たちに語りかけています。
自然の奇跡は、一つの生物だけから生まれるのではない。
森、水、風、光、生命が調和して初めて現れる。
そして、その調和は人間が守ろうとしなければ失われる。
阿寒湖のマリモは、北の湖が育んだ神秘であると同時に、人間と自然がどのように共に生きるべきかを示す、緑色の小さな地球なのです。


