宮沢賢治「雨ニモマケズ」とその生涯
宮沢賢治「雨ニモマケズ」とその生涯
◆他者の幸福を願い続けた、三十七年の人生
「雨ニモマケズ」全文
以下は、宮沢賢治が手帳に書き留めた表記に近い形です。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
手帳では、この後に次の祈りの言葉が記されています。
南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩
本文は青空文庫が『新校本宮澤賢治全集』に基づいて収録したものです。原手帳には「ヒデリ」ではなく「ヒドリ」と書かれているため、ここでも原表記に従いました。後の出版物や朗読では「ヒデリ」とする場合があります。
1.花巻に生まれた「石っこ賢さん」
宮沢賢治は1896年8月27日、岩手県花巻の質屋・古着商を営む家庭に長男として生まれました。
幼いころから石や鉱物、植物、昆虫に強い関心を持ち、家族からは「石っこ賢さん」と呼ばれていました。後に盛岡高等農林学校へ進んだのも、地質、土壌、植物、農業への関心があったためです。首席で入学し、地質調査や鉱物採集に熱中しました。
しかし、賢治の心には幼いころから一つの葛藤がありました。
父の商売は、生活に困った農民から品物を預かって金を貸す質屋でした。裕福な家に生まれた賢治は、冷害や凶作に苦しむ農民たちを見ながら、自分の家の繁栄が貧しい人々の苦しみと無関係ではないと感じていたと考えられています。花巻市の解説も、家業が後の賢治に重い心の負担を残したとしています。
2.科学と宗教をともに求める
賢治の特徴は、科学者の目と宗教者の心を同時に持っていたことです。
鉱物、地質、天文学、農学を学ぶ一方、幼少期から仏教に親しみ、青年期には『妙法蓮華経』に強い感銘を受けました。1920年には田中智学が創設した在家仏教団体・国柱会に入会し、翌年には東京で働きながら街頭布教や奉仕活動も行いました。
賢治にとって科学と宗教は、必ずしも対立するものではありませんでした。
自然界の法則を科学によって理解し、すべての生命が互いに支え合う世界を宗教と文学によって表現しようとしたのです。星、風、石、動物、植物が人間と同じように語り動く賢治の作品世界は、こうした考えから生まれました。
3.農学校教師となる
1921年、25歳の賢治は稗貫農学校、後の花巻農学校の教師となり、農業、土壌、肥料などを教えました。
賢治の授業は型破りでした。教科書を読むだけではなく、生徒を野外へ連れ出し、土や植物を実際に観察させました。詩を書き、歌を作曲し、演劇を生徒たちに上演させるなど、科学・農業・芸術を一つに結び付けようとしました。
この時期、賢治は膨大な詩と童話を書きました。
代表作には、
- 『注文の多い料理店』
- 『銀河鉄道の夜』
- 『風の又三郎』
- 『どんぐりと山猫』
- 『セロ弾きのゴーシュ』
- 『グスコーブドリの伝記』
などがあります。
しかし、現在の名声とは異なり、生前の賢治はほとんど無名でした。
4.最愛の妹トシとの死別
賢治の人生で最も大きな悲しみとなったのが、妹トシの死でした。
トシは賢治の文学を理解する、最も親しい協力者でもありました。しかし結核に侵され、1922年11月27日、24歳で亡くなります。
賢治はその臨終に立ち会い、
- 「永訣の朝」
- 「松の針」
- 「無声慟哭」
などの詩を書きました。花巻市も、トシの死を賢治の生涯における最大級の衝撃であり、文学に重大な影響を与えた出来事と位置づけています。
『銀河鉄道の夜』に描かれる「ほんとうの幸い」への問いや、生と死を超えた魂の交流にも、トシとの死別が深く影を落としていると考えられます。
5.生前に出版された二冊
1924年、28歳の賢治は詩集『春と修羅』と童話集『注文の多い料理店』を刊行しました。
どちらも事実上の自費出版でしたが、ほとんど売れず、多くの本が残りました。『春と修羅』は生前に刊行された唯一の詩集です。現在では日本文学の重要作品とされていますが、当時の賢治は広く評価されることなく、経済的な利益もほとんど得られませんでした。
賢治は名声のために書くというより、自分が感じた世界を記録し、人々の幸福に役立てようとして書き続けました。
6.教師を辞め、農民の中へ
1926年、30歳になった賢治は農学校を辞職し、花巻郊外の下根子桜で一人暮らしを始めました。
畑を耕し、農民から肥料や稲作の相談を受け、農村を歩き回りました。また、若い農民や教え子を集めて羅須地人協会を設立し、農業、音楽、文学、芸術について講義しました。レコード鑑賞会や器楽合奏も行い、農民の日常生活そのものを明るく豊かなものにしようとしました。
その理想は「農民芸術概論綱要」に示されています。
賢治は、農民が働くだけで疲れ果てるのではなく、農業と科学と芸術を結び付け、精神的にも豊かに生きられる社会を夢見ていました。
しかし、その活動は必ずしも農民たちから広く理解されたわけではありません。さらに、無理な生活と過労が賢治の身体をむしばんでいきます。
7.病気と挫折
1928年、32歳の賢治は急性肺炎を発症し、その後長い療養生活に入りました。
いったん回復すると、1931年には東北砕石工場の技師となり、石灰肥料の宣伝と販売に奔走しました。農家の土壌を改良し、冷害から作物を守ろうとしたのです。
しかし同年9月、東京出張中に高熱を出し、遺書を書くほどの重態となりました。花巻へ戻った賢治は、再び病床に伏します。
8.病床で書かれた「雨ニモマケズ」
「雨ニモマケズ」は、1931年11月3日、賢治が35歳のとき、小さな黒い手帳に鉛筆で書き留めたものです。健康に活動していた最盛期ではなく、病気によって仕事を続けられなくなった時期に書かれました。
この背景を知ると、
丈夫ナカラダヲモチ
という言葉は、健康な人の自慢ではなく、病に苦しむ賢治の切実な願いであったことが分かります。
そして最後の、
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
も、「私はすでにそのような立派な人間だ」という宣言ではありません。
そのような人間になりたいが、自分はまだなれていないという祈りと自己反省なのです。
9.「雨ニモマケズ」が描く理想の人間
この詩で描かれる人物は、英雄でも、権力者でも、世間から称賛される成功者でもありません。
東に病気の子どもがいれば看病し、西に疲れた母がいれば稲束を背負い、南に死を恐れる人がいれば安心させ、北に争いがあれば仲裁に行きます。
つまり、賢治が理想としたのは、
苦しむ人のいる場所へ、自分から歩いていく人
でした。
しかも、その善行を誇らず、褒められなくても恨まず、「デクノボー」と呼ばれても静かに生きることを願っています。
ここでいう「デクノボー」は、単なる無能な人というより、世間的な利害や名誉にとらわれず、黙って他者のために働く人を表していると読めます。
10.法華経の祈りとしての詩
詩の後には、釈迦牟尼仏、多宝如来、妙法蓮華経、そして上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩への帰依が記されています。
このため「雨ニモマケズ」は、単なる人生訓や道徳的標語ではなく、賢治の法華経信仰に根ざした誓願文、祈りの文章として読むことができます。
賢治が求めたのは、自分だけが救われることではありませんでした。
病人、疲れた母、死を恐れる人、争う人など、苦しんでいるすべての人と共に幸福になる道を求めました。その考えは、賢治の有名な言葉、
世界がぜんたい幸福にならないうちは
個人の幸福はあり得ない
という思想にも通じています。
11.最期まで農民の相談に応じる
1933年8月、賢治の病状は悪化していました。
それでも、農民が肥料の相談に訪れると、賢治は病床から起き上がり、長時間にわたって丁寧に説明したと伝えられています。
その後さらに衰弱し、同年9月21日、父に法華経を印刷して知人に配るよう遺言し、37歳で亡くなりました。
生涯独身で、文学者として十分に認められることもなく、その短い人生を終えました。
12.死後に国民的作家となる
賢治の作品の多くは、生前には未発表のままでした。
弟の清六や友人たちが遺稿を整理し、死の翌年の1934年に三巻本の『宮沢賢治全集』が出版されました。その後、詩や童話が少しずつ読まれるようになり、戦後には日本を代表する詩人・童話作家として広く知られるようになりました。
「雨ニモマケズ」も、生前に発表するために整えられた作品ではなく、死後、手帳から発見されて知られるようになった文章です。
結び―なれなかったからこその祈り
宮沢賢治は、いつも穏やかで、迷いがなく、完全に自己を捨てて生きた聖人だったわけではありません。
父と激しく対立し、宗教的な情熱に揺れ、農民から理解されず、仕事に失敗し、病気によって志を断たれました。
それでも、自分の弱さや挫折を知りながら、
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
と願い続けました。
この詩が今も人の心を打つのは、立派な人間が自分の完成を語っているからではありません。病気と挫折の中にいた一人の人間が、最後まで他者の幸福を願い、自分もそのように生きたいと祈った言葉だからでしょう。
宮沢賢治の三十七年の生涯は短いものでした。しかし、その生涯は、科学と信仰、農業と芸術、個人の苦悩と世界全体の幸福を、一つにつなごうとした真摯な歩みだったのです。


