八丈島の歴史と景観
八丈島の歴史と景観
二つの火山と黒潮が育てた「東京の南国」
八丈島は、東京の南方約286キロメートルの太平洋上に浮かぶ伊豆諸島の島です。行政上は東京都ですが、黒潮の影響を強く受けるため温暖で雨が多く、亜熱帯を思わせる植物、黒い溶岩海岸、青い海が広がっています。
一方で、八丈島は江戸時代の流刑地としても知られています。しかし、その歴史は「流人の島」だけでは語れません。縄文時代から人々が海を渡って暮らし、養蚕、織物、漁業、農業を営みながら、独特の文化を築いてきた島です。
1.二つの火山がつくった島
八丈島は、北西部の【八丈富士(西山)と、南東部の三原山(東山)】という二つの火山が結びついてできた、ひょうたん形の島です。
八丈富士は標高854.3メートルで、伊豆諸島の最高峰です。比較的新しい火山で、裾野が美しく広がる姿が富士山に似ていることから、この名で呼ばれています。山頂には大きな火口があり、その縁を歩く「お鉢巡り」では、太平洋と島全体を見渡す雄大な景観が広がります。
これに対して三原山は、長い年月の浸食を受けた古い火山です。深い谷、清流、滝、ポットホールなどが発達し、八丈富士とは異なる、緑深く湿潤な山岳景観をつくっています。つまり八丈島では、若く端正な火山と、古く浸食された火山を一つの島で見ることができます。
2.縄文時代から続く海上交流
八丈島の人類史は非常に古く、湯浜遺跡からは約7000年前の縄文時代早期の竪穴住居跡や磨製石器が発見されています。
また、倉輪遺跡からは約5000年前の土器や人骨、装身具などが出土しました。石器には神津島産の黒曜石が使われており、古代の人々が伊豆諸島や本州との間を舟で行き来していたことを示しています。八丈島は遠く離れた孤島ではありましたが、古くから黒潮の海上交通によって外部世界と結ばれていたのです。
島には、秦の始皇帝の命を受けて不老不死の薬を求めたという徐福伝説、八十八重姫伝説、丹那婆伝説という三つの始祖伝説も伝えられています。これらは史実とは別に、島の人々が自分たちの起源を海の彼方と結び付けて考えてきたことを表しています。
3.中世の支配と黄八丈
八丈島に本格的な統治機関が置かれたのは、室町時代の1338年ごろとされています。その後、複数の勢力が島の支配を争い、16世紀初めには北条氏が全島を支配しました。
支配権争いの背景には、島の特産品であった絹織物があったと考えられています。それが、現在まで伝わる黄八丈です。
黄八丈は、黄色・樺色・黒色を基本とする絹織物です。
黄色はカリヤス、樺色はタブノキ、黒色はシイなど、島に自生する植物を使って糸を染め、灰汁や泥に含まれる鉄分で色を定着させます。鮮やかな黄色を自然染料で出す技術が特に珍重され、江戸時代には年貢として納められ、大奥などでも用いられました。
黄八丈は単なる工芸品ではありません。土地が限られ、米を十分に生産できなかった島にとって、島外と交換できる貴重な産物であり、島民の生活を支える重要な産業でした。
4.江戸時代の「流人の島」
1604年から明治時代まで、八丈島は徳川幕府の支配下に置かれ、流刑地として使われました。
最初の著名な流人は、関ヶ原の戦いで西軍の中心人物となった宇喜多秀家です。秀家は1606年、34歳で一族や家臣らとともに八丈島へ流され、1655年に島で生涯を終えました。
その後、約265年間におよそ1900人の流人が送られたとされています。流人には政治事件に関係した者だけでなく、犯罪者、僧侶、武士、学者、職人など、さまざまな背景を持つ人々がいました。
流刑生活は決して美化できるものではありません。しかし、読み書き、医療、芸術、工芸などの知識を持つ流人もおり、島民との交流を通じて島の文化に影響を与えました。八丈島の踊りや音楽には、各地から来た流人や漂泊者が伝えた芸能と、島固有の盆踊りや農耕文化が重なっていると考えられています。
5.流人だけでなく、島民も厳しい環境を生きた
江戸時代の八丈島では、火山島特有の限られた耕地と不安定な海上交通のため、島民の生活も容易ではありませんでした。
台風、干ばつ、飢饉、疫病などが起こっても、本土からすぐに救援を受けられるとは限りません。島の人々は、サツマイモ、麦、アワなどを栽培し、漁業、養蚕、黄八丈の生産などを組み合わせて暮らしました。八丈島の歴史には、流人の苦難だけでなく、自然災害や食料不足に耐えながら共同体を守った島民の歩みも刻まれています。
6.明治以後と東京都への編入
明治維新後、伊豆諸島は韮山県、足柄県、静岡県の管轄を経て、1878年に東京府へ編入されました。
1954年から1955年にかけて島内の村々が合併し、現在の八丈町が成立しました。八丈島には現在も、大賀郷、三根、樫立、中之郷、末吉という五つの地域があり、火山地形によって「坂下」と「坂上」に大きく分けられています。
近代以降は、漁業、花き園芸、黄八丈、焼酎、くさやなどが主要産業となりました。黒潮の影響を受ける温暖な気候を生かし、フェニックス・ロベレニーやストレリチアなどの観葉植物・花卉栽培も発達しています。
7.八丈島を代表する景観
八丈富士
八丈島の象徴です。整った円錐形の山体と広大な裾野を持ち、山頂の火口には湿原や池、森林が形成されています。外輪山からは三原山、集落、空港、八丈小島、太平洋を一望できます。
三原山と裏見ヶ滝
三原山は雨が多く、水に恵まれています。山中には深い森、清流、滝があり、八丈富士の開放的な火山景観とは対照的です。
裏見ヶ滝では、遊歩道が滝の裏側を通っており、水のカーテン越しに森を眺められます。周辺にはヘゴなどのシダ植物が茂り、原始的で湿潤な景観が広がっています。
南原千畳岩海岸
八丈富士の噴火で流れ出した溶岩が海岸に達し、固まってできた黒い溶岩台地です。
黒々とした岩盤、白い波、青い海、背後にそびえる八丈富士が鮮やかな対照を見せます。沖合には八丈小島が浮かび、夕日の名所としても知られています。ここには宇喜多秀家と妻・豪姫を記念する像も置かれ、自然景観と流人の歴史が重なっています。
玉石垣の集落
八丈島の古い家々では、海岸の波によって丸くなった溶岩石を積み上げた玉石垣が見られます。
石垣は強い風から家や畑を守る役割を持ちます。丸い石を隙間なく積むには高い技術が必要で、黒い玉石と深い緑の植物がつくる景観は、島民が火山と風の中で暮らしてきた歴史を伝えています。
八丈小島
八丈島の北西約7.5キロメートルに浮かぶ火山島です。かつて宇津木村と鳥打村がありましたが、厳しい生活条件などから1969年に全住民が離島し、現在は無人島となっています。
人の生活がなくなった後は、アカコッコ、カラスバト、海鳥などの重要な生息地となりました。集落跡、石垣、学校跡、神社などが残り、人間の歴史と自然への回帰を同時に感じさせる島です。
8.黒潮が育てた海の景観
八丈島周辺の海は、黒潮の影響によって透明度が高く、暖海性の魚類に恵まれています。
アオウミガメ、クマノミ、伊豆諸島固有の魚ユウゼンなどが見られ、ダイビングやスノーケリングの名所となっています。近年は冬季を中心にザトウクジラの回遊も確認されています。
島の海は生活の糧でもあり、トビウオ、カンパチ、ムロアジなどの漁業や、独特の発酵食品「くさや」の文化を育てました。海は八丈島を本土から隔てる壁であると同時に、人、物資、文化を運んでくる道でもあったのです。
9.八丈島の景観が伝えるもの
八丈島の美しさは、南国的な海や花だけにあるのではありません。
八丈富士の火口、三原山の深い谷、黒い溶岩海岸、風を防ぐ玉石垣、黄八丈を生んだ草木、無人となった八丈小島――これらはすべて、火山、黒潮、風雨と人間の生活が長い時間をかけてつくった景観です。
八丈島の歴史を一言で表すなら、
海によって隔てられながら、海によって外の世界と結ばれてきた島
といえるでしょう。
流刑地としての悲しい記憶を持ちながらも、島民は外から来た人々の文化を受け入れ、黄八丈、八丈太鼓、島ことば、食文化など、独自の文化へと作り替えてきました。八丈島は、厳しい自然と歴史を受け止めながら、そこから美しい暮らしと文化を生み出した島なのです。


