青函トンネル―海底を貫いた苦難の大工事
青函トンネル―海底を貫いた苦難の大工事
◆世界最長の鉄道海底トンネルが結んだ本州と北海道
青森県と北海道の間に横たわる津軽海峡。その海底深くを貫き、本州と北海道を一本の鉄路で結んでいるのが青函トンネルです。
全長は53.85キロメートル。そのうち23.30キロメートルが海底下を通り、最深部の線路は海面下約240メートルにあります。調査から開業まで40年以上、本格的な工事だけでも約24年を要しました。異常出水、軟弱な岩盤、正確な測量、換気や排水など、前例の少ない課題との闘いでした。
なお、「世界最長」という表現には注意が必要です。青函トンネルは、海底区間を含む鉄道トンネルとして総延長が世界最長です。一方、海の下を通る区間だけを比較すると、英仏海峡トンネルの37.9キロメートルの方が長くなります。
1.津軽海峡という難所
津軽海峡は、本州と北海道を隔てる交通上の難所でした。
青函トンネルが開通する以前、人や物資、鉄道車両の輸送を担っていたのが青函連絡船です。列車をそのまま船内の車両甲板へ積み込み、青森と函館の間を運航していました。
しかし津軽海峡は、強風、濃霧、急な天候変化、複雑な潮流にさらされます。冬には雪や低温も加わり、船による輸送は常に自然の影響を受けました。
「海峡の下に鉄道を通す」という構想は戦前から存在しましたが、当初は技術的にも経済的にも、実現困難な夢と考えられていました。戦後の1946年に本格的な地質調査が始まり、海底の地形や岩盤を調べる長い準備が進められました。
2.洞爺丸事故が建設を促した
青函トンネル建設を大きく促進したのが、1954年9月26日に発生した洞爺丸事故です。
台風15号の暴風と高波により、青函連絡船「洞爺丸」が函館湾外で沈没しました。死者・行方不明者は1,155人に上り、世界的にも重大な海難事故となりました。同じ台風では、洞爺丸以外の連絡船も沈没しています。
この悲劇によって、
天候に左右されない、安全で安定した本州・北海道間の交通路が必要だ
という世論が強まりました。
洞爺丸事故だけがトンネル計画の出発点ではありません。しかし、長年調査段階にあった構想を、国家的事業へ進める決定的な契機となったのです。
3.なぜ最短距離を掘らなかったのか
津軽海峡の最短距離は約19キロメートルですが、青函トンネルの海底部分は23.3キロメートルあります。
これは、単に最短距離を選ぶのではなく、海底の水深が比較的浅く、掘削に適した岩盤が続く場所を慎重に選んだからです。
採用されたのは、本州側の津軽半島・竜飛付近と、北海道側の松前半島・吉岡付近を結ぶルートでした。海上からのボーリング調査、地震波を利用する探査、深海調査などを重ね、海底下に埋もれた地質構造を推定しました。
このルートでも最大水深は約140メートルあります。さらに海底から最低100メートルほど下の岩盤内を通すため、最深部では海面下約240メートルに達します。
4.いきなり本坑を掘らなかった
海底下では、前方の岩盤を目で確認できません。
掘った先に断層や大量の地下水があれば、海水圧を受けた水が一気に坑内へ流れ込み、工事区間全体が水没する危険があります。
そこで青函トンネルでは、主に三種類の坑道を段階的に掘りました。
先進導坑は、本坑より先に進み、地質や湧水の状態を調査する小さな坑道です。
作業坑は、作業員や資材の移動、地盤改良、本坑工事の支援に使われました。
本坑は、実際に列車が走る最も大きなトンネルです。
先進導坑が危険を探り、作業坑が工事を支え、その後を本坑が追うという慎重な方法でした。北海道側の吉岡では1964年、本州側の竜飛では1966年に調査斜坑の掘削が始まり、1971年から本坑を含む本格工事へ移りました。
5.最大の敵は「水」だった
青函トンネル工事は、しばしば水との闘いと表現されます。
海底下の岩盤には多くの亀裂があり、その亀裂を通って高い圧力を受けた水が流れ込みました。工事中には4回の大規模な異常出水が発生しています。
最大の危機は、1976年5月に北海道側の吉岡作業坑で起きました。
大量の水と土砂が坑内へ流入し、最大の出水量は毎分約70トンに達しました。作業坑は約3キロメートルにわたって水没し、一時は海底部全体が水にのまれるのではないかと危惧されました。
作業員たちは水門を閉じ、ポンプを増強し、昼夜を分かたず排水を続けました。完全に水を排出するまでには約2か月を要しました。
海の底での出水は、地上のトンネルとは意味が違います。水源が海とつながれば、流入は自然には止まりません。工事関係者は、海からの圧力に対して、わずかな坑道とポンプで立ち向かったのです。
6.地盤注入という「見えない防壁」
軟弱な岩盤や断層をそのまま掘れば、水と土砂が流れ込みます。
そこで活用されたのが地盤注入工法です。
掘削する前に長い孔を前方へ開け、セメントミルクと水ガラスの混合物を高圧で注入します。薬液が岩盤の割れ目へ入り込み、固まることで、
- 岩盤を強くする
- 水の通り道をふさぐ
- 土砂の流出を防ぐ
という効果を生みました。
青函トンネルで使用された注入材は、約84万7,000立方メートルに達します。また、前方の地質を調査する水平ボーリングでは、当時世界最長級となる2,150メートルを達成しました。
これは、岩を掘り進むだけの工事ではありません。
危険を先に探り、
水の道を見つけ、
岩盤を人工的に固めてから、
少しずつ進む。
その繰り返しによって、海底の弱い地層を突破したのです。
7.吹き付けコンクリートとロックボルト
掘削した直後の岩盤は、空気に触れると崩れたり、坑内側へ押し出されたりすることがあります。
そこで掘った岩盤の表面へ直ちにコンクリートを吹き付け、さらに長い鋼棒を放射状に打ち込むロックボルト工法が用いられました。
ロックボルトは、ばらばらになりやすい岩盤を一つの大きな構造として働かせます。地山本来の強さを利用してトンネルを支える考え方です。
レーザー測量、水平先進ボーリング、地盤注入、吹き付けコンクリート、ロックボルトなど、青函トンネルで実用化・発展した技術は、その後の日本の長大トンネル工事にも受け継がれました。
8.海の下で両側を正確につなぐ
工事は青森側と北海道側の両方から進められました。
全長50キロメートルを超えるトンネルを両側から掘り、海底の一点で正確につなげるには、極めて高度な測量が必要です。地上のように、途中で外から位置を確かめることはできません。
測量にはレーザーや精密機器が使われ、坑内の温度、重力、地球の曲率なども考慮されました。
1983年1月27日に先進導坑が貫通した際、両側から進んだ坑道の誤差は、距離方向でわずか約2センチメートルだったとされています。
暗い海底下で、何十キロも離れた二つの坑道がほぼ正確に出会ったことは、日本の測量技術を象徴する成果となりました。
9.34人の命が失われた
世紀の大工事の陰では、事故によって34人の工事関係者が命を落としました。
トンネル内の作業には、落盤、発破、重機、出水、資材運搬など、多くの危険が伴いました。海上で行われた地質調査にも危険がありました。
青森県の青函トンネル記念館近くには、工事殉職者慰霊碑が建てられています。青函トンネルを単なる技術的成功として見るのではなく、完成を見ることなく亡くなった人々の犠牲を記憶するための碑です。
工事には延べ約1,400万人が携わりました。掘り出した土砂は約630万立方メートル、使用したセメントは約85万トン、鋼材は約17万トン、総工事費は約6,900億円に達しました。
10.先進導坑・本坑の貫通
1983年1月、最初に先進導坑が貫通しました。
この時、本州と北海道は、人の通れる地下道によって初めて陸続きとなりました。続いて1985年3月10日、列車が走る本坑が全貫通します。
その後、コンクリート覆工、軌道、電気、換気、防災、排水設備などの工事が続けられ、1987年11月にトンネル施設が完成しました。
そして1988年3月13日、海峡線が開業し、列車による本格的な営業運転が始まりました。同日、長年にわたり本州と北海道を結んできた青函連絡船の鉄道連絡航路は、その役割を終えました。
11.最初から新幹線を見据えていた
青函トンネルは、当初は在来線列車を通すために開業しましたが、将来の新幹線運行を見据えた大きさで建設されました。
本坑は幅約9.7メートル、高さ約7.85メートルの複線新幹線型です。軌道も、在来線の1,067ミリメートルと新幹線の1,435ミリメートルの双方に対応できる、三本レールの構造へ発展できるよう設計されました。
開業後は「北斗星」「トワイライトエクスプレス」「カシオペア」「はまなす」「スーパー白鳥」など、多くの旅客列車が海底を走りました。
2016年3月26日には北海道新幹線の新青森―新函館北斗間が開業し、現在の青函トンネルは新幹線と貨物列車が共用する重要な区間となっています。
12.海底駅から防災拠点へ
青函トンネルには、かつて世界でも珍しい二つの海底駅がありました。
本州側の竜飛海底駅と、北海道側の吉岡海底駅です。見学列車が停車し、利用者は地下施設や工事跡を見学することができました。
両駅は北海道新幹線工事に伴い、2014年に営業を終了しました。しかし施設は廃止されたのではなく、現在は「竜飛定点」「吉岡定点」として、防災・避難の重要拠点になっています。
火災などが発生した場合、列車を定点へ停車させ、排煙・消火を行い、乗客を避難所へ誘導します。定点からは救援列車、徒歩、ケーブルカーによって地上へ避難できる構造です。
13.完成後も続く水との闘い
トンネルが完成したからといって、水との闘いが終わったわけではありません。
現在も岩盤から染み出す湧水を、毎分約20トン排水しています。水はトンネル中央付近の低い場所へ集められ、ポンプによって地上へ送り出されます。排水設備が止まれば、トンネルの安全を維持できません。
換気、排水、火災検知、電力供給、避難設備などは絶えず点検・更新されています。JRTTは1999年度から、ポンプや列車火災検知装置の更新、先進導坑の補修など、長期的な機能保全工事を続けています。
青函トンネルは、完成した構造物を放置して使っているのではありません。
24時間水をくみ上げ、
機械を点検し、
岩盤と設備を補修し続けることで、
初めて毎日の列車運行が守られている。
その意味では、青函トンネルの建設事業は今も続いているといえます。
14.青函トンネルがもたらしたもの
青函トンネルの最大の意義は、本州と北海道を天候に左右されにくい固定された鉄道で結んだことです。
旅客列車だけでなく、北海道の農水産物、食料品、宅配貨物、生活用品などを運ぶ貨物列車にとっても、青函トンネルは重要な物流路です。
また、この工事で培われた、
- 海底地質の調査
- 長距離水平ボーリング
- 地盤注入
- 高精度測量
- 大量湧水の処理
- 長大トンネルの防災管理
などの技術は、その後の国内外のトンネル建設へ大きな影響を与えました。青函トンネルは2017年、「日本の20世紀遺産20選」にも選ばれています。
基本データ
開業日 1988年3月13日
総延長 53.85キロメートル
海底部分 23.30キロメートル
最大水深 約140メートル
海底からの最小土かぶり 約100メートル
最深部 海面下約240メートル
工事期間 約24年間
延べ作業人員 約1,400万人
総工事費 約6,900億円
工事殉職者 34人
まとめ――海の底に刻まれた人間の意志
青函トンネルの歴史は、
戦前からの構想
→ 戦後の地質調査
→ 洞爺丸事故
→ 竜飛・吉岡からの掘削
→ 4度の大出水
→ 地盤注入技術の発展
→ 先進導坑の貫通
→ 本坑の全貫通
→ 1988年の開業
→ 2016年の北海道新幹線開業
という長い歩みでした。
私たちが列車で通過するとき、車窓から海底や岩盤を見ることはできません。暗いトンネルを十数分間走り抜けるだけです。
しかし、そのコンクリートの外側には海の圧力があり、下部では大量の水を排出するポンプが動き続けています。そして坑道には、海底を探り、岩を掘り、水と闘い、完成に生涯をかけた人々の足跡があります。
青函トンネルは、単なる長い鉄道施設ではありません。
【自然の前に人間の無力さを知りながら、調査と技術と忍耐を重ね、本州と北海道を結びつけた「海底の記念碑」】なのです。
(おわり)







