日韓友好の架け橋としての対馬の歴史

日韓友好の架け橋としての対馬の歴史

◆海峡の境界で、衝突を交流へ変えてきた島

長崎県の対馬は、日本列島の中で朝鮮半島に最も近い場所に位置する「国境の島」です。

古代には大陸文化を受け入れる玄関口となり、中世以後は朝鮮との貿易と外交の実務を担いました。一方で、白村江の戦い、元寇、倭寇、朝鮮軍の来襲、豊臣秀吉の朝鮮出兵など、国家間の緊張が高まるたびに、最初に戦火へさらされる島でもありました。

したがって、対馬の歴史は初めから平和で友好的だったわけではありません。

海が人を隔てる境界となるのか、
人を結ぶ道となるのか。

その問いに向き合い、争いの後に何度も交流を回復してきたところに、「日韓友好の架け橋」としての対馬の本当の意味があります。

1.朝鮮半島に最も近い日本の島

対馬は南北約82キロ、東西約18キロの細長い島で、島の大部分を山地が占めています。日本本土より朝鮮半島に近いという地理的条件から、晴れた日には北部から釜山方面を望むこともできます。

現在は日本と韓国という二つの国家の間に国境がありますが、古代の海上交通において海は必ずしも障壁ではありませんでした。

舟を操る人々にとって、対馬は九州と朝鮮半島を結ぶ途中の寄港地であり、風や潮を待ち、飲料水や食料を補給する重要な中継地でした。長崎県は、対馬・壱岐を古代から中国大陸や朝鮮半島と日本を結ぶ国際交通路の一部と位置づけています。

2.大陸文化を日本へ伝えた玄関口

中国の歴史書『三国志』の「魏志倭人伝」には、3世紀の対馬国が登場します。山が多く耕地が少ないため、海を渡って交易を行っていた島の様子が記されています。

対馬の遺跡からは、朝鮮半島系の土器、青銅器、鉄器、ガラス玉などが発見されています。例えば北部の塔の首遺跡から出土した銅釧、銅矛、鏡、ガラス玉などは、弥生時代の対馬と朝鮮半島との文化交流を具体的に示す資料です。

対馬市は、大陸から日本へ伝わったものとして、

  • 石器・青銅器・鉄器などの技術
  • 稲作
  • 漢字
  • 仏教
  • 各種の工芸や生活文化

を挙げています。対馬は日本文化の最終的な発祥地ではありませんが、朝鮮半島を経て伝来する文化を受け止め、日本列島へつなぐ窓口の一つでした。

3.交流の道は、同時に侵攻への道でもあった

海上交通に便利な場所は、戦争の際には防衛の最前線となります。

663年、倭国が百済復興を支援して唐・新羅連合軍と戦った白村江の戦いに敗れると、大陸からの侵攻が警戒されました。そのため667年、対馬中央部の城山に古代山城・金田城が築かれ、防人が配置されました。

金田城には、山の地形に沿って築かれた石塁や城門、水門などの遺構が残っています。

これは、対馬が文化の玄関口であると同時に、日本防衛の最前線だったことを物語る遺跡です。

外国文化を受け入れる入口と、
外敵を防ぐ砦が、
同じ島に存在した。

この二面性は、その後の対馬の歴史を貫いています。

4.元寇―最初に戦火を受けた島

1274年の文永の役では、元・高麗連合軍が最初に対馬へ来襲しました。

現在の小茂田浜付近に軍勢が上陸し、対馬の地頭代・宗資国は、少数の家臣とともに迎え撃って戦死しました。小茂田浜神社では、現在も宗資国らが祀られ、慰霊の祭りが続けられています。

この戦いでは対馬の住民にも大きな被害が出ました。

元軍には高麗の兵士や船員も動員されていたため、元寇は日本と高麗の単純な民族対立として理解することはできません。しかし、対馬の人々にとって、朝鮮半島側から来た軍勢による襲撃が深い歴史的記憶となったことは確かです。

友好の歴史を語る際にも、このような犠牲を忘れてはなりません。

5.倭寇と朝鮮軍の対馬来襲

中世になると、日本人を含む海上勢力による倭寇の活動が朝鮮沿岸を苦しめました。対馬は朝鮮との貿易拠点である一方、朝鮮側から倭寇の根拠地の一つと見なされるようになります。

1419年、朝鮮王朝は倭寇を取り締まるため、大規模な軍を対馬へ派遣しました。日本では応永の外寇、韓国では己亥東征などと呼ばれる出来事です。

しかし、戦いの後も対馬と朝鮮の関係は断絶したままではありませんでした。

対馬にとって朝鮮との交易は生活を支える重要な基盤であり、朝鮮側にも倭寇を統制し、安定した公式貿易へ移行させる必要がありました。両者は交渉を重ね、宗氏が島内の海上勢力を管理しながら、朝鮮との公的貿易を仲介する体制が形成されていきます。

6.宗氏―国境外交を担った領主

鎌倉時代から明治時代まで、約600年にわたって対馬を治めたのが宗氏です。

宗氏は対馬の領主であると同時に、日本側の政権と朝鮮王朝との間に立つ外交実務者でもありました。室町時代には朝鮮貿易をほぼ独占する地位を築き、江戸時代には釜山の倭館を拠点として、外交・貿易・漂流民送還などの実務を担当しました。

米作に適した平地の少ない対馬では、朝鮮との貿易が経済を支える生命線でした。

宗氏にとって朝鮮との平和は、単なる理想ではありません。島民が生きていくために不可欠な現実的条件でもあったのです。

一方、両国の制度、言語、外交儀礼には大きな違いがありました。その間を取り持つため、対馬藩は大量の記録を作成し、過去の交渉例を保存しました。現在残る膨大な「対馬宗家文書」は、日本の対外関係史を知る貴重な資料となっています。

7.秀吉の朝鮮出兵――架け橋が侵略路となった時

1592年から始まった豊臣秀吉の朝鮮出兵では、対馬は日本軍が朝鮮半島へ渡るための中継地となりました。

対馬には清水山城が築かれ、壱岐、肥前名護屋、釜山を結ぶ軍事的な駅城として用いられました。宗義智は開戦回避のため交渉したものの、秀吉の命令を止めることはできず、出兵に参加しました。

それまで積み重ねられてきた貿易と外交関係は断絶し、朝鮮半島には甚大な被害が生じました。

この時、対馬は友好の架け橋ではなく、侵略軍が渡っていく通路となりました。

この歴史は、地理的な「架け橋」が自動的に平和を生むわけではないことを示しています。橋を人と文化の交流に使うのか、軍隊を送り込むために使うのかは、人間の選択にかかっているのです。

8.戦争直後から国交回復に動く

1598年に秀吉が死去して日本軍が撤退すると、宗氏は直ちに朝鮮との国交回復へ動き始めました。

戦争の被害を受けた朝鮮側の日本に対する不信は強く、交渉は容易ではありませんでした。それでも宗氏は何度も使者を送り、1602年には朝鮮から対馬へ使節が到来します。そして1607年、朝鮮国王の使節が江戸幕府の将軍に会うため来日し、1609年には貿易も再開されました。

宗氏の仲介には、対馬経済を再建するという切実な事情がありました。

それでも、7年に及ぶ戦争の後、報復ではなく交渉によって関係を回復させたことは、東アジア外交史における重要な出来事です。

対馬は、戦争によって壊れた橋を、再び架け直す役割を担ったのです。

9.朝鮮通信使を迎えた島

1607年から1811年まで、朝鮮王朝から日本へ12回の使節が派遣されました。これが江戸時代の朝鮮通信使です。

「通信」とは、現代の電話や情報通信という意味ではありません。

信を通わせる――互いに信義を通じ合わせる

という意味です。

使節団は釜山を出航して最初に対馬へ入り、瀬戸内海を経て京都や江戸へ向かいました。一行は400~500人規模になることもあり、外交官だけでなく、学者、医師、画家、書家、音楽家なども参加していました。対馬藩は釜山で一行を迎え、往路・復路とも江戸まで案内・警護しました。

対馬は通信使にとって、日本への最初の玄関口でした。

厳原では宿舎や接待施設が整えられ、通信使を迎えるために金石城や庭園も整備されました。1811年の最後の通信使では、江戸まで行かず、対馬で国書交換の儀式が行われています。

10.詩文と学問による文化交流

朝鮮通信使の旅では、国書の交換だけでなく、学者や僧侶、文人による交流が行われました。

日本の知識人は通信使の宿舎を訪れ、漢文による筆談を行い、漢詩を贈り合い、医学、地理、政治、歴史、書画などについて意見を交換しました。こうして残された筆談唱和集や行列絵巻などは、外交儀礼を超えた知的交流を伝えています。

2017年には、日韓両国に残る外交記録、旅程記録、筆談唱和集など111件333点が、

「朝鮮通信使に関する記録――17世紀~19世紀の日韓の平和構築と文化交流の歴史」

としてユネスコ「世界の記憶」に登録されました。申請は日本と韓国の民間団体が共同で行いました。

これは、どちらか一方の国だけの遺産ではありません。

戦争を経験した両国が、外交と文化交流によって平和関係を再構築したことを示す共有の歴史遺産なのです。

11.雨森芳洲の「誠信交隣」

対馬藩の朝鮮外交を象徴する人物が、江戸時代中期の儒学者・雨森芳洲です。

芳洲は朝鮮語を学び、朝鮮通信使の応接や外交文書の作成に携わりました。彼が重んじたのが、一般に「誠信之交」「誠信交隣」と表現される考え方です。対馬市の基本条例にも、その精神が島の歴史的遺産として掲げられています。

その意味は、相手を策略で動かすことではありません。

互いに欺かず、争わず、
真実をもって交わる。

国の制度や習慣が異なっていても、相手の立場を理解し、誠実な言葉で信頼を築くという外交姿勢です。

対馬の役割は、両国の命令を右から左へ伝えるだけではありませんでした。言葉や儀礼の違いを理解し、誤解が戦争へ発展しないよう調整する「翻訳者」としての役割を担っていたのです。

12.近代国家の成立と「国境の島」

明治維新後、宗氏による外交は終わり、対馬は近代日本国家の国境防衛拠点としての性格を強めました。

日清戦争、日露戦争、日本による韓国併合、植民地支配、第二次世界大戦を通じて、対馬海峡は軍事・政治上の重要海域となります。

1945年以後、日本と韓国は別の主権国家として向き合うことになりました。国境管理が明確になる一方、対馬と釜山の間には、漁業、観光、文化行事などを通じた民間交流が再び育っていきます。

古代のように自由に往来する海ではなくなりましたが、「最も近い隣国」と直接向き合う島であることは変わりません。

13.朝鮮通信使行列の復活

対馬では、埋もれかけていた朝鮮通信使の歴史を現代の日韓交流に生かす活動が行われてきました。

1970年代末から1980年ごろにかけて厳原で通信使行列の再現が始まり、その後、朝鮮通信使ゆかりの自治体や団体を結ぶ全国的なネットワークへ発展しました。対馬で始まった行列再現は、日本各地や韓国・釜山での交流活動にもつながりました。

現在の厳原港まつりでは、日本側の武士と韓国側の使節団がともに衣装をまとい、通信使行列を再現します。

これは単に江戸時代の華やかな行列を見せる観光行事ではありません。

かつて戦争で断絶した両国が、信頼を回復して使節を送り合った歴史を、現代の日韓市民が一緒に再現するところに大きな意味があります。

14.現在も続く日韓交流

対馬市と韓国・釜山広域市影島区との交流は1986年に始まり、2005年には対馬市として姉妹縁組を再締結しました。対馬市は釜山に事務所を置き、観光や文化交流の連絡調整も行っています。

現在も、

  • 朝鮮通信使行列
  • 日韓合同の海岸清掃
  • スポーツ交流
  • 青少年交流
  • 学術・文化交流
  • 対馬高校での韓国語・韓国文化教育

などが行われています。

2025年の日韓国交正常化60周年には、対馬、ソウル、釜山を結ぶ青少年交流事業が実施され、参加者は対馬博物館や対馬朝鮮通信使歴史館などを訪ねた後、韓国の若者たちと日韓関係の未来について交流しました。

対馬が教える「架け橋」の意味

対馬の歴史には、交流だけでなく、侵攻、略奪、戦争、支配、相互不信が刻まれています。

そのため「対馬は昔から日韓友好の島だった」とだけ説明するのは正確ではありません。

対馬が教えるのは、もっと現実的で深いことです。

架け橋は自然に存在するものではない

島が両国の間にあるだけでは、平和は生まれません。地理的に近いからこそ、争いも起こりやすくなります。

争いの後に橋を架け直す人が必要である

宗氏、通訳、学者、船乗り、商人、通信使を迎えた住民など、名も残らない多くの人々が関係修復を支えました。

相手の言葉と歴史を学ばなければならない

雨森芳洲が朝鮮語を学んだように、真の友好は、自分の主張を伝えるだけでなく、相手の言葉で相手の心を理解する努力から始まります。

友好とは過去を忘れることではない

元寇や朝鮮出兵、植民地支配など、双方の苦痛を都合よく消してはなりません。歴史の傷を直視した上で、同じ過ちを繰り返さない関係を築くことが友好です。

まとめ

対馬の歴史は、

古代の文化伝来と海上交易
→ 白村江敗戦後の国防
→ 元寇と応永の外寇
→ 宗氏による朝鮮貿易
→ 秀吉の朝鮮出兵による断絶
→ 国交回復と朝鮮通信使
→ 雨森芳洲の誠信外交
→ 近代の国境化
→ 現代の日韓市民交流

という、交流と衝突、断絶と再生の繰り返しでした。

対馬は、ただ日本と韓国の中間に浮かんでいる島ではありません。

戦争への道にもなった海を、
もう一度、人と文化が往来する道へ変えてきた島。

それが、日韓友好の架け橋としての対馬の歴史です。

本当の架け橋とは、対立が存在しない場所ではありません。対立や傷を抱えながらも、誠信をもって相手に向かい、何度でも関係を結び直そうとする人々の営みなのです。

(おわり)

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