薬師寺・西塔再建の物語

薬師寺・西塔再建の物語
◆失われた白鳳伽藍を、写経と宮大工の技でよみがえらせる
奈良・薬師寺の西塔は、鮮やかな朱や青緑、金色の飾り金具に彩られた三重塔です。古びた国宝・東塔と向かい合う姿から、西塔も古代の建物と思われがちですが、現在の塔は1981年に再建された現代の木造建築です。
しかし、それは単なる模造建築ではありません。失われた古代寺院を、1300年残った東塔に学び、現代の技術と全国の人々の祈りによって再生した「昭和の大事業」でした。
1.薬師寺は東西二塔の寺だった
薬師寺は680年、天武天皇が皇后、後の持統天皇の病気平癒を願って建立を発願した寺院です。藤原京で完成した後、平城京遷都に伴って718年に現在地へ移されました。
金堂の前方左右に東塔と西塔を置く「双塔式伽藍」を採用したことで知られ、東西二塔が金堂を守るように並ぶ荘厳な景観をつくっていました。現在の東塔は730年に建立されたと伝えられます。
塔は本来、釈迦の遺骨を納めたストゥーパを起源とします。したがって東西の塔は、単なる景観上の飾りではなく、仏の永遠の教えを象徴する建物でした。
2.1528年、西塔は炎の中に消えた
薬師寺は地震、台風、火災に繰り返し襲われました。1361年の地震では金堂と東西両塔が損傷し、1524年には修復のための勧進状が作られています。
ところが1528年、筒井順興と越智氏の争いに関係する兵火によって、金堂、講堂、中門、西塔、僧坊などが焼失しました。東塔だけは奇跡的に残りましたが、西塔は以後、約450年間再建されませんでした。
江戸時代には仮の金堂や講堂が建てられたものの、古代の壮大な伽藍は失われ、明治・大正・昭和初期の薬師寺は、東塔だけが目立つ寂しい境内となっていました。
3.高田好胤の「白鳳伽藍復興」
戦後、伽藍復興に立ち上がったのが、後に薬師寺管主となる高田好胤です。
高田好胤は、修学旅行生にユーモアを交えた「青空説法」を続け、仏教や文化財の大切さを分かりやすく語りました。1967年に管主となると、まず長年の悲願だった金堂再建を目指します。
しかし、巨額の建設費を一部の富裕な寄進者だけに頼るのではなく、多くの人に般若心経を書いて納めてもらう写経勧進を始めました。
一巻ごとの納経料を復興資金に充てる方法です。これは資金集めであると同時に、一人ひとりが薬師寺復興に参加し、仏の教えに触れる運動でもありました。1975年に写経百万巻を達成し、翌1976年に金堂が完成します。
金堂完成後も写経は途絶えず、次の目標として西塔再建が掲げられました。
4.宮大工・西岡常一への依頼
再建工事の中心となったのが、「最後の宮大工棟梁」と呼ばれた西岡常一です。
西岡は法隆寺の昭和大修理などに携わり、古代の建物は設計図だけでは理解できず、木の性質、山の環境、木目、乾燥後の変化まで読まなければならないと考えていました。
西塔再建では、建築史家の浅野清らによる設計委員会が設計を担当し、西岡が施工を指揮しました。古代建築研究と宮大工の経験を結びつける体制でした。
最大の「教科書」は、向かい側に立つ東塔でした。1300年間の地震や風雨に耐えてきた東塔を実測し、柱、組物、軒、裳階、瓦などを詳しく調査しました。
ただし、西塔を現在の東塔と同じ古びた姿で複製したのではありません。目標とされたのは、東塔が創建された当時の姿を再現することでした。
5.六重に見える三重塔
西塔は東塔と同じく、建築上は三重塔です。
ところが各層に「裳階」という小さな屋根が付くため、大小六つの屋根が重なり、六重塔のように見えます。この複雑な屋根のリズムが、薬師寺の塔の最大の特徴です。
文化庁の記録によると、西塔は天平尺を基準とし、古代の連子格子、組物、軒の出などを研究して設計されました。奈良時代と同じ角頭の和釘も約6000本使用され、木材表面や瓦、彩色材料にも耐久性への配慮が施されています。
6.「千年後」を考えた設計
西岡常一らが見ていたのは、完成直後の美しさだけではありませんでした。
木造の塔は、長い年月の間に木材が乾燥して縮み、屋根の重さによって軒先が少しずつ下がります。そのため西塔では、将来の変形を見越して各軒先を約6センチ高く施工しました。文化庁は、建物外周が100~200年で約30センチ下がることを想定した設計だったと説明しています。
つまり、完成時だけを基準に形を整えたのではありません。
数百年後に、最も美しく安定した姿となるように建てる
という、現代の一般建築とは異なる時間感覚で造られたのです。
西塔が東塔より新しく、やや高く鮮やかに見えるのは、失敗でも不調和でもありません。時間の経過によって木が落ち着き、色彩が薄れ、次第に東塔へ近づいていくことまで考えられていました。
7.古代工法だけで造ったのではない
西塔再建は「すべて古代と同じ方法で造られた」と説明されることがありますが、厳密にはそうではありません。
基本は伝統的な木造軸組構法ですが、地中梁、杭、柱と礎石を結ぶ金属部材、瓦を固定するステンレス釘や銅線など、必要な部分には現代材料も取り入れられました。
古代建築の外観や木組みを守りながら、地震や強風に対する安全性を補うためです。文化庁は西塔を、伝統構法の長所と現代技術を組み合わせた「超長期型耐久建造物」と評価しています。
これは古代の建築をそのままコピーしたのではなく、古代の思想を現代の知識で受け継ぐ再建だったといえます。
8.1981年、450年ぶりに双塔が復活
西塔は約3年の工期と、当時約10億円の工費をかけて完成しました。1981年4月1日から5日まで落慶法要が営まれ、この時までに写経は二百万巻を達成していました。
1528年の焼失以来、約450年ぶりに東西二つの塔が並びました。
古色を帯びた東塔と、朱・青緑・白・金に輝く西塔。この違いは、新旧の不調和ではなく、
- 東塔は1300年の時間をまとった姿
- 西塔は創建当時を想定した若い姿
を同時に見せています。薬師寺公式サイトも、両塔の色彩の対比を西塔の大きな特色として紹介しています。
9.西塔に戻った「釈迦八相」
創建当時の西塔内部には、釈迦の生涯を八つの場面で表した「釈迦八相」のうち、悟りを開いた後の四場面が塑像で表現されていました。
その古代像は失われ、破片だけが残りましたが、2015年、彫刻家の中村晋也による新しい像が西塔内に安置されました。
表されているのは、
成道・転法輪・涅槃・分舎利
の四場面です。東塔には釈迦の前半生を示す四場面が置かれ、東西両塔を合わせて釈迦の全生涯を表す構成となっています。
10.西塔再建が伝えるもの
薬師寺西塔再建の価値は、失われた建物を美しく復元したことだけではありません。
高田好胤は、人々に写経を呼びかけ、数百万人の小さな祈りを一つの大伽藍へ結集しました。西岡常一は、古代の工匠の知恵を読み取り、完成時ではなく数百年後を見据えて木を組みました。
したがって、西塔は二人の人物だけが造った建物ではありません。
経を写した人、寄進した人、木を選んだ人、瓦を焼いた人、色を塗った人、設計した人、木を刻んだ宮大工――無数の人々の祈りと技が積み重なって完成した塔
なのです。
まとめ
薬師寺西塔は、1528年の兵火で焼失し、約450年間失われていた後、写経勧進を中心とする白鳳伽藍復興運動によって1981年によみがえりました。
その再建は、東塔を表面的に模倣したものではありません。1300年間生き続けた東塔から学び、古代工法と現代技術を結び合わせ、さらに数百年、千年先へ残ることを目指した仕事でした。
東塔が過去から届けられた建築であるなら、西塔は、現代の人々が未来へ送り出した建築です。
向かい合う二つの塔は、単なる新旧の対照ではなく、文化は一度失われても、人々の祈りと技術と決意によって再び受け継ぐことができる――その希望を示しているのです。
(おわり)

